21/8/29 宇留野城

この日は午前のうちに外出して、JR水郡線常陸大宮駅から南東へ1.5kmほどの場所にある日向神社へ向かいました。

概要

この日向神社がある台地は宇留野城の跡だそうで、現在も全体的に遺構が残っています。

宇留野城散策

城域内を通過し、日向神社へ向かう道。
道の脇に設置されている案内板。
3つの郭からなっています。
御城(主郭)に建立されている日向神社。
説明板。
日向神社境内の土塁。
御城、中城間の空堀。
中城内、御城寄りの場所は手入れがされています。
中城から御城を見ます。
途中の案内板脇から中城、外城間の空堀に入れます。
外城内、この郭は全体的に散策出来る程度に手入れされています。
外城北側の土塁。
外城北東の虎口と見られている場所ですが、外側が藪になっています。

宇留野城歴史

この城が築かれた時期は定かではありません。
鎌倉時代の1297年頃、この地には宇留野大輔阿闍梨宏揄という人物がいたと云われ、その事から宇留野氏を名乗る人物がいて、居館を置いていたともされている様です。
その後佐竹氏から城主が入って宇留野氏と称して分家となります。
室町時代、佐竹義俊の子で出家していた天鳳在虎が還俗して城主となり宇留野氏を称したとされています。在虎は義公とも名乗ったとする見方もあるようです。
またこの頃佐竹氏は一門である山入氏と争いを続けていて、在虎もそれに巻き込まれて討たれた様です。
戦国時代、佐竹義舜の子である義元は、義公の次男である義久の養子となって宇留野氏を継いたとされている様です。しかし義元は兄である義篤と仲が悪かった様です。
1529年、義元は佐竹氏重臣である小貫氏の部垂城を奪取して拠点とし部垂義元と名乗ったそうです。これをきっかけに「部垂の乱」と呼ばれる義元と義篤の争いが起こります。
一方、義公の長男である義長の子、長昌が城主になっていたそうですが、部垂の乱で義篤側についていたと云います。
1540年、義篤が部垂城を急襲して義元を自刃に追い込んだことで部垂の乱は終結します。
1602年、佐竹氏が秋田に転封された際にそれに従ったため廃城になったと云います。義長、長昌の系統が城主であったそうですが、その後も一族は存続したそうです。

参考

現地説明板

日本城郭全集3

宇留野氏 – wikipedia

宇留野義元 – wikipedia

古城盛衰記

余湖くんのホームページ

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください