23/7/24 南酒出城

この日は昼頃に外出し、JR水郡線南酒出駅から北西へ600mほどの場所にある蒼龍寺付近へ向かいました。

概要

この蒼龍寺付近から南に掛けて、佐竹氏によって築かれた南酒出城の跡で、現在も主要部の遺構が主郭部の遺構が残っています。

南酒出城散策

西側から見た城域遠景。

城域北側の5郭跡から主郭部を見ます。

5郭内に設置されている説明板。

蒼龍寺もかつては5郭だった様です。

説明板前から少し南へ進んだこの辺りから4郭だった様ですが、この辺りの遺構は無くなっています。

さらに南へ進んだ4郭内。

2郭空堀跡。

2郭土塁。
虎口は改変されています。

2郭北西部を見ます。

2郭西側空堀。
その外側を取り巻く様に3郭が位置していますが、現在は民家が建っていたりします。

2郭北東の土塁上から東側を見ます。
主郭北側空堀などが見えます。

左写真と同じ位置から南側を見たもの。
主郭西側空堀や土橋が見えます。

主郭西側の土橋と虎口。

主郭内。

虎口北側脇の土橋。

西側空堀に降りたもの。

主郭中程北側から北西部を見たもの。

左の写真を撮った位置付近に残る井戸跡。

南酒出城歴史

この城は平安末期から鎌倉時代初頭に掛けて、佐竹秀義の子である南酒出義茂によって築かれたとされています。秀義はいわゆる源平合戦で平家方寄りであったため頼朝方の討伐を受けています。
しかし1189年の奥州合戦を機に鎌倉方に帰順した事で御家人として仕え、息子の義茂と助義がそれぞれ南酒出と北酒出を与えられたとされています。
ただ「重要遺跡調査報告書2」では義茂が築いたとしているものの、現地説明板などでは疑問視されています。もっとも義茂が築いたとしても小規模な居館であったと思われますので、いずれにしても現在残っている城は戦国時代のものと思われます。
その後戦国時代に額田小野崎氏の額田城に対抗するための付城として佐竹氏によって築かれたと見られています。
1589年、佐竹氏は額田小野崎氏のを攻め落としている事から、その際に拠点として用いられたと思われます。
しかし1602年に佐竹氏が秋田へ移封された事で廃城になった様です。

感想

蒼龍寺周辺から南側に掛けてと規模は大きめの城だった様ですが、現在遺構が残っているのは半分程度の範囲で、その残りも主郭を除くと改変されています。
しかし主郭空堀とそれに付随した土塁は見応えありますし、説明板や案内などもあって程よく整備されているという印象を受けました。

参考

現地説明板

重要遺跡調査報告書 2 (城館跡) – 茨城県教育委員会

日本城郭全集3

余湖くんのホームページ

佐竹秀義 – wikipedia

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