22/10/22 関城

この日は昼頃に外出して関東鉄道常総線騰波ノ江駅から西へ1kmほどの場所にある八幡神社へ向かいました。

概要

この場所から西側は南北朝時代に南朝方の拠点として用いられた関城の跡とされています。

関城散策

城域北東、内沼川から見た遠景。
城域北東部に残っている坑道跡。
八幡神社の西にある土塁跡。
土塁の東側は郭跡らしき平場となっています。
城域東端にある八幡神社。
八幡神社社殿。
社殿裏手の土塁。
城域西側の主郭虎口を北東から見ます。
主郭虎口から北側空堀跡を見ます。
規模は大きめですが、浅くなっています。
主郭内。
主郭内にある伝・席宗佑墓所。
墓所前にある説明板。

関城歴史

この城は鎌倉時代に結城氏当主結城朝広の四男関朝泰によって築かれたと云われています。
南北朝時代の1341年、当時の城主宗佑は南朝方に属していた様で、後醍醐天皇の側近である北畠親房が入城した事で南朝方の拠点として用いられます。親房は小田城に在城していた様ですが小田治久の離反によって追われて来たようです。
この事により、大宝城とともに高師冬の攻撃を2年に渡って受けたとされています。この攻城戦は長きに渡り、物見を落とすために坑道を掘ったとも云われています。
そして1343年11月11日、北朝方による総攻撃が行われて翌日に大宝城とともに落城、城主宗佑、宗政親子は討ち死にしたと云われています。
城はこの後歴史上に出ることは無くどの様に用いられたのか不明です。

感想

移動中に下館駅での乗り換えで手間取って、常総線を一本逃してしまい、予定より遅く日没直前の到着となってしまいました。そのため主郭に到着する頃には暗くなっていて、デジカメでの撮影が難しくなりスマホでの撮影も多くなっています。
そのため船着き場など城域西端付近は訪れる事が出来ませんでした。
城域はそれなりの規模があるものの、主郭付近を除くと遺構は断片的に残っているといった所です。
しかし確認出来る遺構の規模は大きめで、近隣にあり同じく南朝方の拠点として用いられた大宝城と同じ様な規模感だったのかという印象でした。

参考

現地説明板

関東の名城を歩く 北関東編

関城・大宝城の戦い – wikipedia

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