この日は昼頃に外出して、西武池袋線狭山ヶ丘駅から南西へ3.5kmほどの場所にある西勝院付近へ向かいました。
概要
この西勝院から北側に掛けて平安時代に築かれた宮寺氏の館があったとされ、僅かながら遺構が残っています。
宮寺氏館散策

路地の右手側にはかつて土塁が残っていた様ですが、現在は残っていません。


山門左手側に館跡の標柱が立っています。


土塁上には閻魔堂が建っています。


位置や形状から城域南東端のものと思われますが、物見も兼ねていたと見る向きもある様です。

宮寺氏館歴史
この館は平安時代末期、武蔵七党の一つ村山党村山氏当主、村山頼家の子である家平が居館として築いたと云われている様です。家平は宮寺に居を置いた事で宮寺氏を称したそうです。家平は同族の金子家忠とともに源義朝、頼朝親子に仕え戦功を挙げたと云います。
1190年、家平は出家し館に寺院を建てたそうです。
また家平以降の宮寺氏については明らかでは無く、後世の史料では武蔵国において宮寺氏の名が見られるものの家平の末裔か定かでありません。
鎌倉時代末期の1330年、境内に加納下野守が居城を築いたそうです。南北朝に掛けて新田義貞、義興の傘下で働いたという下野守は村山党の流れを汲む人物ともされていて、だとすれば家平の同族と云えそうですがその詳細は明らかでありません。
江戸時代には伊濃氏が居を構えたそうですがその詳細については不明だそうです。
感想など
平安時代末期から江戸時代まで断続的に用いられたと見られている城館です。
最初に築いたのは宮寺氏ですが、現在見られる遺構は土塁の規模感や水路が外堀跡とされる構造から加納下野守によるものと思われます。
「埼玉の館城跡」では当城を「加納下野守城」として記載している事から下野守を実質的な築城主と見なしているのかも知れません。また同書では下野守を村山党に属するとしています。
残っている遺構は多くありませんが、土塁はそれなりの規模があります。
参考
現地説明板
宮寺小史
入間市史 通史編
姓氏家系大辞典 1
埼玉の館城跡
埼玉県秩父郡の全名字
