20/7/11 本庄城

この日は少し遅めの時間に外出して、JR高崎線本庄駅から北東へ1kmほどの場所にある城山稲荷神社へ向かいました。

概要

この場所は本庄城があった場所ですが、遺構はほとんど残っていません。

本庄城散策


(左)城山稲荷神社南にある鳥居の脇には城跡碑があります。
(右)説明板。文字がかすれてきています。


(左)鳥居から入った平場は主郭跡だそうです。
(右)主郭跡から西の市役所を見ます。市役所付近も郭があったとする見方があります。


(左)主郭の北に隣接している城山稲荷神社。
(右)城山稲荷境内から主郭を見ます。


(左)主郭と東側の二曲輪間の堀跡。
(右)二曲輪と城域東端の笹曲輪間の空堀。この辺りから北側にかけて面影を感じます。


(左)北西から見た笹曲輪。
(右)北東から城域北側の城塁跡を見ます。


(左)笹曲輪跡である八坂神社鳥居。南から見たもの。
(右)八坂神社境内で城域先端である東側を見たもの。遺構などは見受けられません。


城域北を流れる元小山川に掛かる、北東の城下橋から見た城域。

本庄城歴史

この城は1556年、山内上杉氏に使える本庄実忠によって築かれたと見られています。
しかしその祖先とされる、武蔵七党児玉党本宗家庄氏の庄高家によって築かれたとも云われているようですが、庄氏の居館は南の栗崎にあったとされ、本庄氏は実忠の父実明まで栗崎館に近い東本庄館に居を置いていたとされています。そのため高家が居館を置いたとするのは伝承の域を出ないと思われます。
城主である実忠は上記の通り山内上杉氏に仕えていましたが、1567年に後北条氏の攻撃を受けて落城し、以降後北条氏に服属することになります。
しかし実忠やその子である近朝は関東に上杉謙信や滝川一益が攻めてくると、それらに合流して後北条氏から離反していたようですが、謙信や一益が撤退すると再度後北条氏に服属していたようです。
1590年、小田原の役にて後北条氏方の城として用いられ、小田原開城後に開城します。近朝は小田原城にいて、小田原開城に際して自害し本庄は滅亡したそうです。
同年、徳川家康が関東に移封されると小笠原信綱が信濃国松尾より1万石を与えられ本庄藩が成立します。この頃城は改築されたとされています。
1612年、信綱の婿養子で跡を継いでいた信之は下総国古河へ2万石に加増され転封となり本庄藩は廃藩、城も廃城となりました。

参考

現地説明板
日本城郭全集4
本庄氏 – wikipedia
余湖くんのホームページ
城郭図鑑

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