20/8/15(1) 川崎城

この日は午前の内に外出して、JR宇都宮線矢板駅から南西へ3kmほどの場所にある川崎城跡公園へ向かいました。

概要

この場所は名前の通り川崎城の跡となっていて、宇都宮氏の支族である塩谷氏の居城であったと言われています。

川崎城散策

川崎神社(新城)

城域に到達するまで迷走し、体力を余分に消耗した気がします。

川崎神社の西から東北自動車道沿いに南下して進入するのが当初の予定ルートでしたが、想像以上に荒れていて、ナビの地図では川崎神社から南下して到達できそうに見えました。
しかし結局川崎神社からの道はありませんでした。
また後で知ったことですが、社殿後方の高台は出城的な施設である「新城」が築かれていたそうです。

(左)城域北、宮川に掛かる川崎大橋から見た城域。
(右)川崎神社鳥居。

(左)川崎神社参道。
(右)川崎神社境内。

(左)城域東側から宮川に掛かっているともなり橋。
(右)ともなり橋。

城域南側

上記は主郭に到達するまでのログです。
城域への進入路は確認した限りでは二ヶ所あり、城跡公園駐車場からと城域東にある蕎麦屋の真裏からとなっています。後者の進入路は初見では分かり難く、進入時には気付きませんでした。
そのため今回は進入は駐車場から、出る際は蕎麦屋裏からとなっています。

(左)駐車場にある案内板。
(右)駐車場からの登道。

(左)駐車場から登ると最初に到達する「南曲輪」。主郭の南にある曲輪となっています。
(右)南曲輪の奥。

(左)主郭西側にある「一の堀」の南東側。
(右)「一の堀」北西側。

城域南側にある星宮神社。

二の曲輪~三の曲輪

主郭の北西には二の曲輪と三の曲輪が連なっています。
それぞれの曲輪は複数の平場でなっています。

(左)二の曲輪。
(右)二の曲輪から一の堀を見下ろします。

(左)二の曲輪下の曲輪。
(右)二の曲輪から三の曲輪に降りる階段を三の曲輪側から見たもの。

(左)二の曲輪から降りた場所は三の曲輪下の帯曲輪らしき場所でした。実は三の曲輪に直接降りられる階段があったようなのですが、気付きませんでした。
(右)帯曲輪から右手側を見ると更に下の曲輪が見えます。

帯曲輪を進みましたが、藪がひどくなって行くように見えたため、来た道を戻って主郭へ向かいました。

主郭~城域東側


(左)主郭虎口。
(右)虎口から入った脇にある城跡碑ですが、完全に影になる場所で撮ってしまっていました。

(左)虎口付近から見た主郭内。
(右)主郭説明板。

(左)主郭から見た二の曲輪。
(右)主郭にはもう1か所入り口がありますが、こちらは公園化に伴って作られた物と思われます。

(左)一の堀から東側へ進んだ場所にある平場には東屋があります。
(右)平場から北側を見ます。

(左)東屋から南曲輪付近を経由して、東側を降りていくと段々になった腰曲輪らしき小規模な曲輪があります。
(右)東側から降りると、蕎麦屋の真後ろに出ました。

川崎城歴史

この城は鎌倉時代初頭、宇都宮成綱の子である塩谷朝業によって築かれたと言われています。
成綱は塩谷朝義の婿養子になり、塩谷氏を継いだのだそうです。
朝義までの塩谷氏は源義親の流れを汲む事とされている事から「源姓塩谷氏」、朝業以降の塩谷氏は藤原宗円の流れを汲むとされる宇都宮氏の一門である事から「藤姓塩谷氏」と呼ばれて区別されたりしている様です。
宇都宮氏に仕える領主であった塩谷氏ですが、1423年、13代目城主である教綱は宇都宮氏当主である宇都宮持綱を狩りに招いて殺害したと言われています。
これは持綱が宇都宮氏支族である武茂氏から婿養子で継承した事が影響し、鎌倉公方足利持氏の後ろ盾を得て実行したとされています。
その後教綱は宇都宮氏宗家などと争っていたようですが、1458年に持綱の子である等綱に誘い出されて殺害されたようです。
教綱の子、隆綱は宇都宮氏宗家と和睦し、等綱の子である孝綱を養子に迎えます。
1509年、宇都宮氏と敵対していた烏山城主那須氏の那須資房に調略された家臣が謀反を起こそうとするも、孝綱は未然に収めたと言われています。
また孝綱の頃は一族である喜連川塩谷氏との争いや宇都宮氏宗家と再度対立しています。
1564年、孝綱の子である義孝は、那須氏に与していた弟隆信に城内へ侵入されて暗殺されてしまいます。
1566年、宇都宮氏の元に落ち延びていた、義孝の子である義綱は隆信から城を奪還します。
1585年、那須氏との争いから宇都宮国綱が出陣する事態となり、薄葉ヶ原の戦いが勃発します。その結果塩谷氏ら宇都宮方は敗れ、塩谷領は那須氏が侵入し城付近まで攻められた様です。
1590年に勃発した小田原の役に際して義綱は豊臣方で参陣し所領を安堵されていたとされています。
しかし1595年、義綱は秀吉より改易を言い渡され、城も廃城になったそうです。

感想

一の堀を始めとする見ごたえのある遺構が残っています。
しかし時期や下調べが良くなかったか、城域到達までに体力や時間を消費してしまい、その結果探索もやや雑になってしまったと言わざるを得ない結果となりました。
川崎神社の西、東北自動車道沿いに南下して城域に到達出来るかは実際に確認していません。
ただ多少進んで草が伸び放題であった為、城跡公園に行く道では無いと判断してしまったという事はあります。
その結果体力を消耗してしまった感は拭えません。
やはり夏場の攻城は慎重に行かねばならないと改めて感じました。

参考

現地説明版
関東の名城を歩く 北関東編
余湖くんのホームページ
塩谷氏 – wikipedia

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