23/8/30 馬坂城

この日は午前に外出し、JR水郡線谷河原駅から西へ2km強の場所へ向かいました。
ただ結構な遠回りで実際には3km強でした。

概要

この場所は佐竹氏発祥の地とされる馬坂城の跡とされ、現在も全体的に遺構が残っています。

馬坂城散策

城域まで

南から見た城域遠景。

城塁下から城域を見上げます。
左側に見えているのは間坂薬師堂です。

主郭部

薬師堂に隣接している大手門跡。
内側は二郭ですが、草が生い茂って進入は困難です。

主郭前に建っている城跡碑と説明板。

説明板。

城跡碑が建っている南側から見た主郭。

主郭の東側、二郭とを隔てている空堀跡。

主郭北東の堀切へ降りる道。

堀切周辺。

堀切を見下ろします。

主郭北側の帯曲輪。

主郭北西堀切前。

主郭北西堀切を見下ろします。

主郭西側の帯曲輪。

西城

主郭方面から西城の土塁を見ます。

西城の東にある空堀。

西城から主郭方面を見ます。

西城の東側。

西城の郭内。

郭南側の道を進みます。

西城西側。袖曲輪を見ます。

袖曲輪空堀。
袖曲輪は周囲を空堀が廻っています。

袖曲輪標柱。

袖曲輪内。

馬坂城歴史

この城は平安時代後期、武田氏の祖と呼ばれている源義光の孫で佐竹氏の祖である昌義が築いたのが始まりと云われています。
その後鎌倉時代初頭に佐竹氏は常陸太田城に居を移したそうですが、昌義の頃かその子隆義の頃とも言われています。佐竹氏の本拠が移った後、隆義の子である義清が稲木氏を称して居を置き、常陸太田城の支城として用いられていたとされています。
ただ稲木氏は後に佐竹氏宗家と山入氏の争いで山入氏に与して没落したとされている様です。
その後室町時代に佐竹義俊の子である義成が天神林氏を称して居を置いたとされていますが、義成とその子義益も山入氏に与して討ち死にしたと云います。その後も天神林氏が居を置いたかは定かではありません。
1602年、佐竹氏が秋田へ移封されてことで廃城となったそうです。

感想

佐竹氏発祥の地で最初の居城とされている城ですが、本拠として用いられた期間は短めと言えます。
そういった事や訪れる前に参照した資料に記載された図面から小規模なイメージを持っていたのですが、想像していた以上の規模だったため、想定以上に時間を掛けて探索したため薄暗くなるまで滞在していました。
そのため城域は全体的に整備されているものの城域北側の堀切と五段切岸と呼ばれている辺りは木が生い茂り、特に後者は訪れる時間が遅かった事もあって写真撮影が困難なことになっていました。
また城の北側を除く三方は民家が建っていて、場所によっては私有地と区別がつきにくい場所もあるため注意が必要です。自分は西城から出ようとした所、宅地に迷い込んでしまったため住人の方に説明の上で謝りつつ出ることになりました。
この様に宅地が近いため、訪れる方は迷惑を掛けない様に散策して頂ければと思います。

参考

現地説明板

関東の名城を歩く 北関東編

重要遺跡調査報告書 2 (城館跡) – 茨城県教育委員会

姓氏家系大辞典 1、2

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