この日は昼過ぎに外出し東武東上線東松山駅から南南東へ2kmの位置にある無量寿寺へ向かいました。
概要
この場所は藤原氏の流れを汲む野本基員の館跡とされ、遺構の痕跡らしきものが見受けられる程度となっています。
野本館散策








遺構の残片かどうかは定かでありません。


将軍塚古墳
無量寿寺の道路を挟んだ南側に残る将軍塚古墳は埼玉県有数の規模を持つ前方後円墳だそうです。
古墳頂部から城域を見下ろせるかと思って登りましたが、頂部は木が茂っていて外は見下ろせませんでした。




野本館歴史
この館は平安時代末期から鎌倉時代初頭の御家人である野本基員の居館だったとされています。
しかし平安時代前期の武将で鎮守府将軍を務めた藤原利仁が築いたという伝承もあります。館の南側に位置する将軍塚古墳には、利仁を祀る利仁神社が建てられています。
ただ『東松山市史』では、利仁が野本に居住した可能性は低いとされています。一方、利仁は武蔵守を務めたほか、上野介・下総介にも任じられたとされ、東国と関係を持つ人物でした。同書は、利仁が武蔵守在任中に武蔵国内へ営所を設けた可能性や、その後裔が武蔵国に居住したことを指摘しています。こうした利仁流藤原氏と武蔵国との縁故を背景に、利仁の後裔とされる野本基員が当地に本拠を構えた可能性があると考察しています[1]。
したがって利仁自身による築造は伝承にとどまり、野本館は基員の時代に成立したと見るのが一般的です。
基員には、下河辺政義の子である時員と、笠原親景の子である時基が、それぞれ養子として迎えられたとされています[2]。そのうち時員の系統が野本氏として続き、時基は野本の西に位置する押垂に居を置き、押垂氏を称したとされています[3]。
尊卑分脈から引用された系譜では時員の後は時秀、行員と続いた様ですが館がいつまで用いられたのかは定かでありません。
「姓氏家系大辞典」では成田家分限帳からの引用で、野本右近という人物の存在が記載されています。分限帳に記録されている以上、野本右近は成田氏に仕えた人物だったとみられますが、基員より始まる野本氏との系譜関係や、館との関係は確認できません。
感想など
大規模な将軍塚古墳に隣接する無量寿寺の境内一帯が、野本館の跡とされています。
現地説明板では北側本堂裏のみに遺構が残っているとされていて、実際に本堂裏の竹藪には、館の北辺に沿うとみられる堀状の窪みと、その北側に土塁状の高まりが認められます。
1981年刊行の『東松山市史 資料編 第1巻』では、西側にも空堀の痕跡が僅かに残るとされています。現在、西側では明瞭な遺構を確認できません。墓地の拡張や境内の改変によって失われた可能性がありますが、消失の時期や原因は確認できません。平成17年制作の説明板が本堂裏の遺構だけを記述している事も、制作時点で西側の遺構が確認困難になっていた為では無いかと推測出来ます。
館が平安時代末期から鎌倉時代初頭に居館として築かれたのであれば、当初は比較的単純な方形居館であったと思われます。一方、現地説明板や『東松山市史』では土塁と二重の空堀を備えていたとされるため、その後も使用されるなかで防御施設が整備・改修された可能性があります。ただしそういった整備がどの時代に行われたのかは資料では確認出来ていません。
参考資料
- 現地説明板
- 東松山市史 資料編 第1巻 (原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編)
- 東松山市史 資料編 第2巻
- 姓氏家系大辞典 第一卷
- 姓氏家系大辞典 第五卷

コメント