23/2/4 中久喜城

この日は午前のうちに外出して、JR水戸線から西へ1.3kmほどの場所へ向かいました。

概要

この場所は小山氏によって築かれ、江戸時代初頭まで用いられた中久喜城の跡で主郭の遺構が残っています。

中久喜城散策

東側から城域方面を見ます。
城域の東側を流れる西仁連川。
栃木県と茨城県の県境にもなっています。
北から見た城域。
城域北側に設置された説明板と城跡碑。
説明板。
城跡碑と説明板の裏に残る土塁と空堀。
水戸線の向かい側にある主郭遠景。
主郭北側の空堀。
主郭南西側の虎口。
城域南側の空堀。
空堀から主郭へ登れる斜面があります。
主郭南側の土塁。
主郭内。
主郭北側の土塁。

中久喜城歴史

この城が築かれた年代は定かで無いようですが、小山氏によって築かれたとされている様です。
1380年に起こった小山義政の乱にて小山氏方の拠点として用いられた岩壺城と見られている様です。
その後も小山氏の拠点として用いられたと見られています。
しかし1590年の小田原の役後、後北条方についていた小山氏は改易され、小山領は改易された小山秀綱の実弟で、隣接していた結城氏当主を養子として継いでいた結城晴朝に与えられます。
同年、晴朝は養子の結城秀康に家督を譲ると隠居城として結城城から居を移したとされています。
1601年、秀康が福井へ転封されると晴朝もそれに従い、城は廃城になったそうです。

感想

この城は主郭北で水戸線で分断されていて、主郭から水戸線を挟んだ北側は宅地化していて遺構はほとんど失われてしまっていますが、主郭の北には2つの郭があったとされています。
しかし残存している主郭は全体的に遺構が残っていています。
城の東、県境付近には秀綱、晴朝兄弟が和睦した事に由来する和談坂と呼ばれる場所がある事から、小山結城両氏の争いは度々あったと思われ、この城は結城領に対する重要な拠点だったのかも知れません。

参考

現地説明板

関東の名城を歩く 北関東編

余湖くんのホームページ

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