この日は昼過ぎに外出しました。
外房線土気駅から東へ1kmほどの場所に目的地の土気城があります。
(左)土気城大手口。内側は空堀を廻らせた馬出になっています。
(中)馬出の土塁上に建立された貴船神社。
(右)三の曲輪南西側の土塁。
(左)三の曲輪内。かなり広い曲輪と言った印象です。
(中)説明板と祠。
(右)日本航空の研修場跡。二の曲輪の半分と主郭の全体を敷地としており進入不可です。入り口は空堀の上に道を渡しています。
(左)二の曲輪虎口。
(中)二の曲輪内。通行出来る部分もかつて研修施設の敷地だったようで、テニスコートなどがあります。そのため堀以外の遺構は期待できません。
(右)正面は本来なら主郭虎口だった場所ですが、研修場の敷地のため堀も埋められた模様です。
(左)主郭から東へ外房線の走る方向へ向かう切通。クラン坂と呼ばれているのだそうです。左側崖上が主郭です。
(中)クラン坂出口。外房線の上を通過し、大網駅方面へ向かうようですが、自分は引き返して元の道から土気駅へ戻りました。
(右)県道20号線、大網街道から見た土気城外郭。マンションの裏に見える丘は城域東端の物見跡と云われています。
この城は平安時代に鎮守府将軍だった大野東人によって築かれた貴船城が始まりと云われています。
鎌倉時代には千葉一族である相馬胤綱の子、土気太郎が居城とします。
戦国時代の1488年に酒井定隆が居城とし、以後100年ほど土気酒井氏の本拠となります。
酒井氏は関東の勢力では北条方と反北条の間を状況にあわせて行き来します。第一次国府台合戦では反北条で参戦しますが、足利義明が敗死すると北条方につきます。
しかし第二次国府台合戦では酒井胤治が再び反北条方に組みし、敗走する里見軍を救援しますが、土気城には幾度となく北条勢が攻めるようになり13年後1576年に北条勢に降伏し胤治は隠居することになりました。
その後は北条勢の拠点となりますが、1590年の小田原の役で当主康治は小田原城に入りますが結局降伏。土気城も開城し酒井氏は改易、城も廃城となりました。