25/2/16(2) 酒山砦

坪井城を散策した後は南西へ向かい、日大船橋駅の隣駅で新京成線も通っている北習志野駅へ向かいました。

概要

北習志野駅の東、習志野台団地付近には酒山砦があったとされていますが、遺構などは面影も留めていません。

酒山砦散策

酒山砦歴史

この砦は戦国時代の弘治(1555-1558)年間に築かれたとされています。
伝承では後藤頼勝という人物が城主であったとされています。
1564年、砦は第二次国府台合戦に先立って、里見方の小田喜城主正木時茂の軍勢に攻められます。
これは伝承によっては時茂の父である時綱となっています。
しかし時綱時茂親子は共にすでに没しているため、時茂の嫡男信茂と養子憲時のうち、伝承では正木大膳は鴻台に進出し台上の花と散った(船橋市史)とあることから国府台で討ち死にした信茂を指していると思われます。
頼勝以下城兵は寡兵ながら正木軍の攻勢を何度か防いだものの、最後は火攻めにより頼勝含めて全滅したと云われている様です。

感想

この城の城域とされている習志野台団地が建っている場所は、かつて北から西そして南にも坪井谷と呼ばれる低地が廻っていた様です。
これは三方を湿地に囲まれていたという伝承と一致するため、城域は今回撮影した辺りと見て良いと思われます。ちなみに北習志野近隣公園の場所は低地だったようです。そして砦は湿地で無い東側を木柵で守りを固めていたとされていますので、地勢と伝承は一致していると言えます。
ただ疑問に感じるのは後北条方が築くのにわざわざ敵がやってくるであろう東側の守りが薄くなる場所に築くのかという点です。
実際伝承でも正木軍は東方向にあたる八千代市高津を経由して攻めてきたとあります。
これでは三方を湿地で囲っている地勢を活かしていると言えないため、後北条方が築いたとは考えに難いと思われます。
開発される以前の地図だと近隣公園の西側であれば西側以外を低地に囲まれた地勢となるため、後北条方が里見方に備えて築くのであればそちら側が適切と思われます。
この事から伝承などにある後北条方が築いたという点では疑問符が付くのではと思っています。

参考

東葛の中世城郭

船橋市史 史料編 5

酒山砦の落城 – 船橋市西図書館 郷土資料のページ

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