20/9/2 椎津城

この日は天候などの関係で少し遅めの外出となり、JR内房線姉ヶ崎駅から南西へ1kmほどの場所にある八坂神社付近へ向かいました。

八坂神社裏手の丘は里見氏と後北条氏が争奪戦を繰り広げたという椎津城があったとされ、主郭周辺の遺構が残っています。

椎津城散策


(左)北側の椎津川付近から見た城域周辺遠景。
(右)城がある高台下には案内があります。

(左)北から城域へ向かう道。
(右)城域入り口。

(左)城域東側にある切岸状地形。
(右)東側から主郭へ向かいます。

(左)説明板。
(右)説明板脇の主郭土塁。

(左)主郭。土塁遺構などは少なめです。
(右)主郭の東にある桝形状遺構。

主郭北側の虎口。それぞれ内側と外側から見たもの。

主郭北側から西側にかけて置かれている腰曲輪。
この辺りは私有地もあるようであまり歩き回らない方が無難と思われます。

(左)主郭南側の堀跡。
(右)堀跡から主郭方面を見ます。

(左)北西から見た二曲輪。外側から何か建物があるように見えたので見ていません。
(右)城域西側の腰曲輪。

(左)城域北側の帯曲輪状地形。
(右)二曲輪南の堀跡とされる辺り。面影は感じられません。

椎津城歴史

この城の築城には諸説あるようです。

  • 鎌倉時代に千葉氏一族椎名氏の流れを汲む椎津胤仲が築いた。
  • 南北朝時代に相模三浦氏の三浦高継が領有し、室町中期の応仁年間に三浦定勝が築いた。
  • 戦国初期に上総武田氏(真里谷氏)が北の防衛を固めるため築いた。

最後のが一番説得力ありますが、それぞれ時代が異なりますので全て該当するという可能性もあります。
戦国初期だと相模三浦氏は追い詰められていて房総どころでは無いとも思われます。
1519年、当時真里谷城主、真里谷恕鑑の拠点であった城は古河公方率いる軍勢に攻められます。これは当時勢力を拡大していた小弓公方足利義明が真里谷氏と結んでいたため、その重要拠点を叩く目的があった様です。
1534年、恕鑑が没すると真里谷氏に家督争いが起こります。長子ながら庶子の信隆が真里谷城主になると、弟の信応を支援する義明に攻められます。この時城は信応の手に落ちたようで、結果的にも信隆は敗れて子の信政とともに後北条氏の元へ逃れた様です。家督を奪った信応ですが、1538年の第一次国府台合戦で義明が討ち死にすると里見氏に接近します。
しかし義明がいなくなった事により、後北条氏の後ろ盾を以って信隆、信政親子が入城し、信隆らの本拠となります。信応は里見氏の元に逃れたといいます。
1552年、里見氏は上総から後北条氏の影響力を排除する為北上し攻め込みます。里見義堯、義弘親子率いる軍勢が攻め込み、信隆没後跡を継いでいた信政は後北条氏の援軍も受けて抗戦するものの敗れて城内で自刃したと言います。危機感を覚えた信応も里見氏に反旗を翻すも敗れて自害するなど、一連の戦で上総武田氏は多くが討ち死にし没落します。城には城代として木曾左馬介が置かれたと言います。
しかし1560年に後北条氏がこの地域を本貫地とする村上氏に椎津大普請を命じている事から頻繁に争奪戦が繰り広げられていたようです。またこの椎津大普請により城は現在の形になったと思われます。
1564年、里見氏が第二次国府台合戦で惨敗すると後北条氏にその勢いで上総に攻め込むと木曾左馬介を敗退させて、白幡六郎を城代として置いたようです。
しかし1567年の三船山合戦で里見氏が勝利を収めて息を吹き返すと、再度争奪戦が行われるようになり、1569年には里見氏の下総侵攻の拠点として用いられた様です。
ただ1576年には後北条氏が侵攻し土気城主酒井氏を屈服させた上で東に有木城を築くなど、この地域を支配下に置いたようです。
1590年、小田原の役にて豊臣方の浅野軍に攻められて落城、城を守っていた白幡六郎は脱出すると討ち死にしたと云われています。これにより城は廃城になったそうです。

感想

主郭周辺のみとは言え、思いの外整備されていて幟も立っています。
ただ整備されている周辺は私有地が残っていて、どこが私有地か分かり難い事もあってやや散策しにくい印象がありました。

参考

現地説明板
房総の城郭
椎津城 – wikipedia

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