この日は午前の内に外出して、JR内房線竹岡駅から北東へ1km程の場所にある燈籠坂大師付近へ向かいました。
概要
このJRの線路を隔てた北にある城山は造海城(百首城)の跡と言われ、現在も遺構が残っています。
造海城散策
(左)西側から見た城域遠景。
(右)南西、JR変電施設前から見た遠景。この脇の道から線路を渡れるかと思いましたが、遮断器も何もなく正式な踏切か分からなったので東側の切り通しへ迂回しました。
(左)城域入り口に当たる灯籠坂大師と切り通しトンネル。
(右)燈籠坂大師お堂。一先ず参拝してから城域への道を進みます。
(左)お堂脇の切り通し道。
(右)線路上を通る尾根道を進んで行きます。
少し進むと平場があります。
堀切のような切り通しを通り、更に登ります。
石積みを備えた虎口へたどり着きます。(写真は戻り際に撮った物です)
(左)虎口を抜けた先はⅣ曲輪のはずですが、草木でよく分からない様相です。
(中)その先へ進むと広めのⅢ曲輪があります。
(右)Ⅲ曲輪の北側下にある腰曲輪。
(曲輪表記は探訪の参考にした「図説房総の城郭」に従っています。)
(左)Ⅲ曲輪から土橋状の道を登ってⅡ曲輪へ向かいます。
(右)城域最高所であるⅡ曲輪内。写真は撮ってませんが先端に石製の物体が鎮座していました。どうやら祠の残骸と思われます。
Ⅱ曲輪から北側斜面を下って城域先端のⅠ曲輪を目指します。
そしてⅠ曲輪に到達したか分かりませんが、引き返します。
途中の道でトラブってモチベーションが落ちていたのがあります。
そして城域西側にあると言う台場跡も目指して見ましたが、道に迷いかけた上に日没時間が近づいてきたので切り上げました。
造海城歴史
この城は15世紀後半に真里谷城を本拠としていた上総武田氏によって築かれたと見られています。
1534年頃、上総武田氏当主の信保(恕鑑)が没すると37年頃から子の信隆と信応による家督争いが起こります。
その際信隆方の拠点として用いられ、信隆の子である信政が入城したと云われているようです。
信隆は小弓公方足利義明の支援を受けた信応に対抗するため里見氏や後北条氏の支援を求めるも劣勢となり、居城である峰上城を開城。信政は信応方に付いた里見軍に攻められ落城します。
その後里見氏の拠点となり、里見氏重臣の正木氏が城主を務めたようです。
しかし1590年の小田原の役後、里見氏は安房一国に減封されたため廃城となりました。
その後幕末には城内に砲台が設置されています。
感想
今回訪れた感想としては規模が大きめな山城でほぼ手付かずの未整備なため一人で気軽に探訪するにはやや厳しい印象でした。
参考
図説房総の城郭
コメント
[…] 1640年、下総国百首から松平重則が転封され皆川藩が再度立藩しますが、政庁は皆川城の麓に置かれたようです。 1705年、足利藩主となった戸田忠時の所領となり、城跡内に陣屋が置かれたようです。 しかし6代藩主忠禄の頃に陣屋は城外に城跡の外に移されたようです。 […]