この日は午前のうちに外出し、JR水戸線下館駅から北へ3kmほどの観音堂へ向かいました。
最寄りは真岡鉄道の折本駅ですが、本数の都合で下館駅から徒歩となりました。
概要
この場所は南北朝時代に用いられた伊佐城の跡とされていますが、遺構は分かり難くなっています。
伊佐城散策
観音堂境内入り口。
観音堂南側の切り通し道。
遺構の名残か定かでありません。
観音堂境内。
郭跡と思われます。
観音堂西側からの観音寺参道。
参道脇には土塁らしきものがありますが、
遺構では無く参道に伴うものと見られています。
参道東側の広場も郭跡かも知れません。
観音寺手前の参道。
観音寺山門。
観音寺境内には下館藩最後の藩主、石川総管の墓が建てられています。
観音寺境内は二段の平場となっている様です。
本堂前には城跡碑が建っています。
本堂裏手には土塁が残っています。
城域東側を流れる五行川と桜並木。
桜並木の桜。
伊佐城歴史
この城は平安時代に藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために築いた三舘(上舘、中舘、下館)の一つである中舘が始まりとされています。
一方で伊達氏の始祖である伊達朝宗によって築かれたとも云われている様です。
鎌倉時代からは朝宗と長子とされる伊佐為宗やその子孫が居を置いたと云われています。また為宗の弟である宗村は朝宗らが奥州合戦の戦功で得た伊達郡を継承しています。
南北朝時代、伊佐氏は南朝方につき最後の城主である行資は籠城し関城や大宝城らと連携して防戦するも高師冬の軍勢によって落城し1343年に落城し城は廃城。伊佐氏も没落したと言います。
感想
桜を見ながら散策できそうな場所と言うことで訪れました。
一見遺構が残っている様にも見えるのですが、調べてみると遺構かどうか判然としないといった印象です。
当城は北4kmほどの場所にある中村城と合わせて伊達氏ルーツの地とされていますが、伊佐氏が南北朝時代と早めに没落した頃から歴史に埋没してしまった感があります。
参考
日本城郭全集3
常陸伊佐氏 – wikipedia