26/9/2 反町館

群馬県の城郭

この日は昼頃に外出して、東武伊勢崎線木崎駅から北へ3.2kmほどの場所にある反町薬師照明寺へ向かいました。

概要

現在寺域となっているこの場所は反町館と呼ばれる城館があったとされ、周囲を水堀に囲まれているなど遺構が残っています。

反町館散策

反町館

反町館の歴史

『上野国志』には反町館は鎌倉時代末期の元徳年間に新田義貞が築いたとあります1が、これを裏付ける確実な史料は確認されていません。義貞が新田氏歴代の居館と伝わる新田館から本拠を移したのか、反町館を一時的に用いただけなのかも定かではありません。

その後は、新田一門の大館氏明が館を預かり、義貞の次男・義興も一時ここに滞在したと伝えられています2。一方『群馬県の中世城館跡』は、村田郷との関係などから、岩松氏庶流・村田氏の館であった可能性が高いと考察しています。

戦国時代には新田金山城の支城となり、横瀬氏(のちの由良氏)の家臣・矢内時英が在城したと伝えられています3
1594年、後北条氏が金山城を攻撃した際には、北条氏邦が本陣を置いたとされます4。最終的には1590年に起こった小田原の役に伴って廃城になったと伝えられています。

感想など

館跡には現在、反町薬師として知られる照明寺が建っています。主郭は四方を水堀に囲まれ、南縁を中心に規模の大きな土塁を見ることができます。主郭を囲む堀は東西両側に「折」を持っていたとされ、西側では現在も屈曲した形状を確認できます。一方、東側の堀は道路改修時に拡幅されており、旧状が分かりにくくなっています。

現在の姿からは単郭式の居館にも見えますが、『日本城郭大系』や『群馬県の中世城館跡』に掲載された縄張り図によれば、戦国時代には主郭の周囲をさらに郭や堀が囲み、その南にも複数の郭が並ぶ大規模な平城へ発展していたようです。西側には、虎口に接続するような小郭状の区画も張り出していました。現在は主郭以外の遺構がほとんど失われているため、現地だけで往時の城域を想像するのは困難です。

反町館は鎌倉時代末期から南北朝時代に成立したと推定されていますが、その後も繰り返し改修され、戦国時代までには金山城の支城にふさわしい複郭式の城郭へ拡張されたと考えられます。『中世城郭の研究』では、復元された縄張りを天文年間の矢内時英在城時に近いものと推測しています。

また、同書は中世前期の館が現在の主郭より小規模であった可能性を指摘しています。そのため、現在見られる水堀や土塁をそのまま新田義貞が築いたと云われる当時の姿と考えることはできず、後世の改修を経た城館の最終的な姿として捉える必要がありそうです。

参考資料

  • 現地説明板
  • 日本城郭大系 第4巻
  • 群馬県の中世城館跡
  • 中世城郭の研究 : 関東地方に於ける築城遺構の実測とその諸問題

脚注

  1. 群馬県の中世城館跡 ↩︎
  2. 日本城郭大系 第4巻 ↩︎
  3. 日本城郭大系 第4巻 ↩︎
  4. 日本城郭大系 第4巻 ↩︎

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