21/7/16 岩ヶ崎城

この日は昼過ぎに外出して、JR成田線佐原駅から北西に1.5kmほどの場所にある稲荷神社へ向かいました。

概要

稲荷神社、愛宕神社周辺から北側の城山にかけて岩ヶ崎城があったと見られ、遺構が部分的に残っているとされています。

岩ヶ崎城散策

南東から見た城域遠景。
城域入り口。
稲荷神社と愛宕神社両方の参道があります。
稲荷神社参道脇には帯曲輪らしき地形が見受けられます。
稲荷神社社殿。
稲荷神社社殿裏手の城塁。
稲荷神社付近から西側の郭を見ます。
郭の西側に確認出来る土塁。
今回確認した中では最も明確で見応えのある遺構です。
郭西側の虎口外側から見た物。
外側から見て緩やかな下り坂となっています。
稲荷神社と郭の間付近から城山に登る道があるとされていますが、草に埋もれたのか見つけられませんでした。
愛宕神社から城域内の郭を見下ろします。
愛宕神社がある場所は城域南辺の土塁となっています。

岩ヶ崎城歴史

この城は戦国時代に創作上の人物である栗林義長が築いたとされている様ですが、実際は矢作城主で千葉氏一門の国分氏によって築かれたと見られている様です。
1590年、小田原の役により後北条方だった国分氏は矢作城を開城し没落します。
同年、徳川家康が関東入封すると、その重臣である鳥居元忠が4万石を与えられて矢作城に入ります。しかし矢作城が手狭との理由で当城を近世城郭として改築したとされていますが、元忠は翌年伏見城にて石田三成の軍に包囲され討ち死にします。
元忠の子で矢作藩を継いだ忠政が改築を続行したか定かではありません。
1602年、忠政は元忠の武功により陸奥国磐城平に10万石を与えられ転封。城は恐らく改築を終えぬまま廃城になったと思われます。

感想

それほど苦労せず主要部を見ることが出来るだろうと思っていましたが、予想外の草や藪に阻まれ中心部とされる城山には到達出来ませんでした。
私見では地形を見ると城の中心部は現在住宅地になっている西側にあったのでは無いかと思われます。
稲荷神社の西側に曲輪跡と思しき平場があり、そこから坂虎口を上って西側に向かう造りとなっています。
また稲荷神社裏手の城山は先達が訪れた結果などを下調べしたしてみて、藩の政庁である近世城郭の主郭を置ける程のスペースと思えず、周辺に石積み遺構が確認されている事から物見や天守台として想定されていたのではと思われます。
もっとも改築を終えぬまま廃城になったと見られていますので、どの程度造られていたのか今となっては知るすべはありません。
個人的には城山とその経路くらいは整備して欲しいと思ってしまいます。城山への経路を求めて住宅地まで見て回った身とすればそう思わざるを得ません。

参考

余湖くんのホームページ

北総の秘めたる遺跡

おシロメグリ

鳥居元忠 – wikipedia

矢作藩 – wikipedia

日本城郭全集3

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