16/10/22 鹿沼城

この日は昼頃に外出して、東武日光線新鹿沼駅から北へ1kmほどの場所にある御殿山公園へ。

ここは鹿沼城があった場所で、現在も遺構が残っています。

(左)南から見た城域遠景。御殿山公園は鹿沼市役所の裏手にあり、右手に見える建物は市役所の物です。
(中)鹿沼市役所第二庁舎。建物が建っている場所が城塁に見えてしまいます。
(右)城域入口。

(左)公園内の武道館。ここは曲輪跡と思われます。
(中)武道館敷地の城塁。
(右)武道館付近にある説明板。

(左)本曲輪方面への上り道。
(中)本曲輪手前には土塁で挟まれた平場があり、腰曲輪と思われます。
(右)腰曲輪はだんだん狭まり空堀状になっていきます。

(左)腰曲輪に面した、本曲輪南側土塁。
(右)本曲輪内の現況。球場となっています。

(左)本曲輪東側土塁。こちら側は武者走りのような道があります。
(右)本曲輪東側より、城域北東にある駐車場を見下ろします。

(左)城域北西にある、本曲輪より高い位置の太夫殿曲輪。現在は忠魂碑が建立されています。
(中)太夫殿曲輪から本曲輪を見ます。
(右)太夫殿曲輪西側の土塁。

(左)先に見下ろした駐車場から城塁を見ます。
(右)駐車場入口から、城域北西にある坂田山城を見ます。

この城の築城者については鹿沼氏と壬生氏の二説があります。

まず先に鹿沼を領していたのは佐野氏の支族である鹿沼氏で、鹿沼氏は小規模な山城である坂田山城を築いて居城としました。
戦国時代に入り、鹿沼氏は東の宇都宮氏により圧迫され、宇都宮忠綱によって滅ぼされてしまいます。
そして宇都宮氏の家臣で、壬生城を居城としていた壬生綱房が鹿沼に入ります。

一般的には1532年に壬生氏によって築かれたと言われていますが、宇都宮氏に滅ぼされる前の鹿沼氏が手狭になった坂田山城から山麓に居城を移していたという見方もあるようです。

1532年当時壬生氏は主家宇都宮氏の内紛に乗じて権勢を強めていました。
そして1549年に宇都宮尚綱が那須氏との戦いで敗死すると、綱房は尚綱に追放されていた芳賀高照ともに宇都宮氏の居城宇都宮城を乗っ取り城主となります。
この時綱房自身は宇都宮、壬生城には嫡男である義雄、鹿沼には綱房の弟である周長が入ります。
1555年、芳賀高照が芳賀高定によって殺害され、綱房も死去します。
綱房に代わって綱雄が宇都宮城主となりますが、1557年に宇都宮広綱に奪還され鹿沼へ引き上げます。
その後後北条氏と組んで独立しようとする綱雄と宇都宮家内に留まろうとする周長が対立、1576年に綱雄は周長と芳賀高定によって殺害されます。
城主となった周長はその年の内に、綱雄の子義雄が篭もる壬生城を攻めますが、返り討ちにあって敗死し義雄が城主となります。
城主となった義雄は父同様後北条氏と組むことを考えていたのか、1590年の小田原の役に際して、主家宇都宮氏が豊臣方に付いたのに対し後北条方に付きます。
そして小田原落城直後に義雄は病没、跡継ぎが無かったこともあり壬生氏は断絶し滅亡。城も廃城となりました。

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