この日は昼過ぎに外出して、東武伊勢崎線足利市駅から北へ1kmほどの場所にある鑁阿寺へ向かいました。
概要
鑁阿寺は足利氏館の跡にあり城域を取り巻く遺構が良く残っています。
また現在は100名城の一つでもあります。
足利氏館散策
鑁阿寺南側の山門である鑁阿寺楼門。
鑁阿寺の南側は門前町的な雰囲気も残っている印象です。
(左)山門東側の水堀と土塁。
(右)山門西側の水堀と土塁。
(左)境内案内板。
(右)鑁阿寺境内。
(左)鑁阿寺本堂。1196年に創建され、1299年に足利貞氏によって再建されたとされています。現在は国宝に指定されています。
(右)境内の多宝塔。1196年に建てられたと云われ、1629年に徳川綱吉の生母である桂昌院によって再建されたのだそうです。
(左)城域南東端を見ます。
(右)城域東側土塁上。
(左)城域南東端付近から鐘楼を見ます。
(右)東門。
(左)城域西側土塁上。
(右)西門。
(左)城域北側土塁上。
(右)北門。
(左)城域南東端、外側から見た物。
(右)山門の南にある足利尊氏像。
足利氏館歴史
この館は12世紀末に源(足利)義康の子で源姓足利氏2代目である足利義兼によって築かれたとされています。
足利荘は元々藤原秀郷の流れを汲む藤姓足利氏の所領だったようです。しかし足利荘を成立させた源義国が足利へ下向すると、藤姓足利氏と足利荘を巡って競合することになります。
義国の子で、源姓足利氏初代である義康は若くして没し、義兼が跡を継ぎます。
義兼は1180年に挙兵した源頼朝に早い段階から従い、従軍したとされています。
そして平氏側に付いた藤姓足利氏は戦で宗家が滅亡したことにより、足利荘における源姓足利氏の支配権が確立します。
義兼は1196年、居館の一角に持仏堂を設け、これが後の鑁阿寺に発展したとされています。
義兼の子である義氏の頃に寺院は整備されたとされ、居館としていつ頃まで用いられていたのか明確な資料は確認出来ませんでした。
しかし館は足利氏7代目で尊氏の父に当たる貞氏まで用いられていたと思われます。
足利氏は代々北条氏の娘との間に設けた子を当主とするなど、北条氏と強い血縁関係にあり、
その後も足利氏発祥の地として重要視され、現在まで至っています。
参考
関東の名城を歩く 北関東編
現地説明板
足利荘 – wikipedia
足利氏 – wikipedia
足利学校
(左)足利学校北西側。
(右)足利学校北東側水堀と土塁。
(左)東側水堀と土塁。土塁越しに建物が見えます。
(右)南東側水堀。カルガモが泳いでいます。
足利学校歴史
足利学校がいつ頃創建されたかは諸説あるようですが、足利義兼によって創建されたと言う説が最有力と見られているようです。
室町時代前期に衰退していたのを山内上杉氏の上杉憲実が復興されたとされています。
その後戦国時代まで実践的な学問を教える場として機能していたようで、1530年頃には後北条氏の保護を受けて最盛期を迎えて行きます。
しかし後北条氏が滅亡した後、江戸時代に入ると徳川氏の保護を受けることは出来ましたが、平時となったことで江戸時代中期以降は朱子学が主流となった事で足利学校は時代遅れとなり図書館として機能していくようになります。
明治維新後足利藩は足利学校を藩校とすることで存続を図りますが、1871年の廃藩置県で足利藩は廃藩され、翌72年に廃校となります。
廃校後旧足利藩士らが県に働きかけた事で、蔵書の散逸を防ぎ、学校の敷地西半分とともに地元に返還されます。
1903年、足利町が学校跡に足利学校遺蹟図書館が設立され、蔵書が保存される事となった後は敷地の保存、整備が行われて行き現在に至っています。
参考
足利学校 – wikipedia