昨日は午前に外出して、関東鉄道常総線大宝駅前200mほどの大宝八幡宮へ向かいました。
概要
この周辺は大宝城の跡で、現在も遺構が残っています。
大宝城散策
(左)駅前から城域を見ます。
(中)駅から歩き最初の十字路には城跡碑と標柱があります。実際その辺りからが城域のようです。ちなみにこの立派な城跡碑は何故か民家の敷地内ギリギリに設置されているように見えました。
(右)大宝八幡宮参道。ちょうど祭の準備中のようでした。
(左)大宝八幡宮案内板。
(中)大宝八幡宮の門
(右)拝殿。参拝者は結構いました。
(左)大宝八幡宮東側の駐車場付近から、八幡宮裏手に回ると虎口に到達しました。これは虎口を北側(外側)から見たもの。
(中)虎口左手側(東側)の土塁。
(右)虎口右手側(西側)に見える城塁。
(左)土塁付近にある石碑(?)。土塁周辺をあじさい園としているようです。
(中)虎口東側土塁に沿って進んでみましたが、道が細くなっていっていたので途中で切り上げました。
(右)虎口内側に進んだ所にある土塁。
(左)八幡宮参道をまっすぐ進み小学校を通り過ぎると、城域南端に出ます。こちらは八幡宮の石碑脇に標柱があります。
(中)入り口東側の土塁。結構な高さがあります。
(右)土塁を内側から見たもの。
今回は城域の北端と南端の探索のみでした。
他にも遺構が残っている場所はあるようですが、体調の都合で途中から駆け足での探索となりました。
そして当初は隣駅の騰波ノ江駅付近にある関城での散策も考えていましたが、今回は断念しました。
大宝城歴史
この城は1232年、小山氏の一族である下妻長政が築いたと言われています。
南北朝時代に入ると、当時の城主政泰は南朝方に付きます。
しかし周辺の南朝方勢力から離反があり、1341年南朝方の公卿北畠親房が大宝沼を挟んて北側にあった関城に入城し、南朝にて常陸国司に任じられた春日顕時が大宝城に入城します。
このため大宝城は関城とともに、南朝方の拠点となり北朝方に狙われます。
そして1343年、高師冬率いる軍勢により関城とともに落城し、政泰は自害します。
そして親房、顕時ともに城から脱出を果たし、吉野へ戻ったのだそうです。
その後城は廃城になったと思われます。
参考
関東の名城を歩く 北関東編