この日は昼ごろに外出して、東武東上線東松山駅から東へ1.2kmほどの場所にある武蔵松山城へ行って来ました。ちなみに所在地は東松山市ではなくて吉見町です。
(左)城域北西から見た遠景。
(中)城域北にある岩室観音。
(右)岩室観音入口前から城域へ向かう道を見たもの。城跡は右手側にあり、右側にある説明板も城跡のものです。
(左) 北東から見た城域。正面以外は民家などですが、如何にもと言った雰囲気で期待してしまいます。
(中)左の写真で右側の道を進むと空堀跡と土橋があります。その内側は惣曲輪と呼ばれる郭で現在は畑地となっています。
(右)惣郭西側から進む道。左手側が上り道で右手側は竪堀へ続いています。
(左)惣曲輪脇の竪堀。どうやら岩室観音堂裏手に繋がっているように見えますが、直接外に出られるか不明です。
(中)惣曲輪から上って行くと虎口らしきものが見えます。
(右)虎口の内側は兵糧倉と呼ばれる小規模な郭となっています。説明板によれば、郭の詳細は不明ですが、主郭の北側を守る郭だったようで「兵糧倉」は通称のようです。
(左)兵糧倉と主郭間の土橋。
(中)主郭(本曲輪)。ここに至ってどうやら裏手から進んできたらしいと気付きました。
(右)本曲輪の標柱と説明板。
(左)本曲輪から見たニの曲輪。
(中)本曲輪方向から南の笹曲輪方面を見ます。
(右)本曲輪西側の道を進んで、本曲輪方向を見たもの。本曲輪方面へは細い曲がりくねった道を進みます。
(中)二の曲輪と春日曲輪の間にある空堀。
(右)春日曲輪の外側にある三の曲輪内。この辺りを訪れた頃は薄暗くなって、写真を撮り難い状態でした。
この城は室町時代の応永年間、扇谷上杉氏に仕えていた上田友直によって築かれたと言われています。
その後扇谷上杉氏が本拠であった河越城を、後北条氏の攻撃によって失います。
その際に後北条氏が余勢を駆って松山城を攻めますが、上杉方の善戦により撃退しています。その為松山城は上杉氏当主の上杉朝定が拠ることとなり大規模な拡張がなされたようです。
しかし河越合戦の結果朝定は戦死、扇谷上杉氏は滅亡したことにより一旦北条方の手に落ちます。その後上杉方と後北条氏との争奪戦の繰り広げられますが、その中で城主上田朝直が後北条氏に寝返った事により城は北条方の拠点として用いられることになります。
1561年、小田原を目指す上杉謙信の手に落ちるものの、上杉軍が撤退した2年後の1563年、北条氏康は武田信玄との連合軍で城を奪還します。
1590年、小田原の役に際して攻撃を受けて陥落しています。城主上田憲定は小田原城に籠城していましたが、小田原城陥落後の消息は知られていません。
徳川家康が関東に入封すると上田氏に替わり松平家広が松山1万石を与えられて城主となり、松山藩が成立します。しかし家広没後の1600年、弟の忠頼が後を継ぐと翌年には遠江浜松に移封されると城は廃城となりました。