不定期、沖縄の歴史7 北山の歴史その二

前回の続きです。

1322年羽地按司怕尼芝により中北山王統は滅ぼされます。

怕尼芝は今帰仁世の主の弟である湧川按司の子であるといわれています。

一応中北山と血の繋がりはあるのですがなぜか区別されています。

今帰仁世の主の子、今帰仁子は伊波按司となって石川に地盤を築き、後にその子や孫が安慶名、具志川、喜屋武、屋良、大湾、山田などと言ったグスクを築きその勢力は大きなものとなります。

一方怕尼芝の王統は「後北山」と呼ばれ一般に北山という場合はこの王統を指します。

1 怕尼芝(1322~1392)

2 珉 (1392~1397)

3 攀安知 (1397~1416)

怕尼芝は明と朝貢を開始し「北山王」の冊封を受けます。

中山、南山に比べ国力は劣るものの海外交易で富を得てそれを持って今帰仁グスクの拡張などの領内支配強化を図ったと見られています。

在位は70に及ぶと見られますが、怕尼芝(ハニジ)=羽地(はねじ)であることから。

2代、もしくは3代の羽地按司が「怕尼芝」という名前で残ったのではないかとも見られているようです。

またこの頃北山の軍は幾度か南下し小競り合いを行ったようですが、そのたびに山田、大湾、屋良といった中北山系の按司達が立ちはだかり時間だけが経過していきます。

攀安知は21年の在位のうち14回も進貢を行い北山に富をもたらします。

伝承によれば武にも優れた王であったようですが、1416年尚巴志率いる中山軍に攻められ激戦の末滅亡しました。

詳細はいずれ。

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