18/1/6 常陸府中城

この日は昼過ぎに外出して、カメラケースを新調してからJR常磐線石岡駅から西へ1km弱の場所にある石岡小学校付近へ向かいました。

概要


石岡小学校辺りから西側一帯は府中城の跡と言われ、遺構が部分的に残っています。

常陸府中城散策


(左)城域に築かれた陣屋の門。
(右)陣屋門説明板。何度か移築されたため、若干違うのだそうです。

(左)石岡小学校があった辺りは三の丸跡と見られているようです。校門に向かって左手(南)側の土塁。
(右)校門に向かって右(北)側の土塁。

(左)小学校敷地南側から見た土塁。こちら側に説明板があります。
(右)説明板。小学校敷地内という事で手早く写真を撮って離れました。
しかし撮ってる側で資料館(何故か小学校敷地内にある)の職員と思われる方に、「閉館しますが大丈夫ですか?」と聞かれたりしたので大丈夫ですと答えてました。開いていると思っていなかったとかそもそも小学校敷地内にあると思ってもいませんでしたし、こちらは新年早々学校敷地内でカメラを持った不審人物と思われたくなかったという事もあります。

三の丸南側にある常陸総社宮。
こちらも城域内だったようです。写真の参道が三の丸南側の空堀跡らしいのですが、分かり難くなっています。
あと予定では本丸方面を見てから常陸総社で初詣予定だったのですが、本丸方面への道を把握しておらず道を間違えてました。
もっとも到着時には社務所が閉まる直前でしたので、もう少し遅ければおみくじも引けない所でしたが。
一応城域西側にも遺構はあるようです。

常陸府中城歴史

南北朝時代

この城は南北朝時代の正平年間(1346~51)に大掾詮国によって築かれたのがはじまりと言われています。
石岡小学校がある場所には元々常陸国府があり、1193年に大掾氏の祖である馬場城(現在の水戸城)主の馬場資幹が源頼朝から常陸大掾職に任じられ、さらに1214年に常陸府中の地頭職に任ぜられたのだそうです。
しかし資幹の子、朝幹の頃に大掾職を巡って常陸国守護の小田氏と争い、後々まで引きずることになります。
資幹の六代孫で詮国の父に当たる高幹は南朝方に付き、瓜連城に籠城しています。
瓜連城落城後の1337年、高幹は府中付近まで攻め寄せた北朝方の佐竹軍を小田治久の援軍を得て撃退しますが、翌38年には北朝方に付きます。これは長年の小田氏との確執が原因とも見られているようです。
そのような状況下で築かれた城ですので、北朝方の拠点として用いられ南朝方の主に小田氏から府中を守る役割を持っていたと思われます。

上杉禅秀の乱から戦国時代

1416年、詮国の子満幹の頃に上杉禅秀の乱が勃発し、満幹ら大掾氏は禅秀方に付くも禅秀方は鎌倉公方方に敗れます。
1419年、満幹が水戸を離れ府中に赴いている隙に、河和田城主の江戸通房に本拠の水戸を奪取されます。
さらに1429年、満幹は鎌倉で鎌倉公方持氏により嫡子とともに殺害されます。
一連の騒動で大掾氏の勢力は府中周辺となり満幹の甥である頼幹が継承します。
1455年、享徳の乱が勃発すると鎌倉公方方で満幹の養子だった千葉氏の馬加康胤が、幕府方に付いていた千葉宗家の胤直、胤宣を攻めると頼幹は幕府方として千葉宗家の救援に向かうも討たれてしまいます。
戦国時代に入ると、大掾氏は佐竹氏を中心とする反北条方として、小田氏など後北条方と争っていました。
1546年、頼幹の来孫に当たる慶幹は、同族である小高直幹と共に攻めてきた小田政治を長者原で撃退し、逆に小高城を落としています。
1563年、佐竹義昭が上杉謙信と共に小山城を攻めている隙を突いて小田氏治が攻めてきます。慶幹の子である貞国はこれを迎え撃つも三村の戦いで敗れ、府中付近まで小田氏の勢力が及んできます。
これら一連の抗争に加え、同じ反北条方である江戸氏にも圧迫されることになります。
1585年、江戸重通との争いが起こり、府中まで攻め寄せた江戸軍を貞国の子である清幹は真壁氏の援軍を受けて撃退しています。
そして翌86年に佐竹氏や結城氏の仲介により和睦します。
しかし1588年に再度争いが起こると佐竹氏は江戸氏に加担します。清幹は敵対していた後北条氏に支援を要請するも、結局府中で佐竹氏、江戸氏、鹿島氏らの軍勢により援軍としてやってきた真壁氏の軍と共に敗れています。
1590年の小田原の役に際して清幹ら常陸南部の諸領主は小田原に参陣しませんでした。
一方豊臣方として参戦した佐竹義宣は秀吉より常陸全域の領有を安堵されます。
そして同年の内に佐竹軍は江戸氏の水戸城を落とし、府中にも攻めてきます。
清幹は抗戦するも敵わず落城し、清幹が自害したことで大掾氏は滅亡します。
大掾氏滅亡後、義宣の叔父に当たる義尚が入城して城主となっています。

大掾氏滅亡後

1602年、佐竹氏が出羽へ移されると、六郷政乗が府中1万石を与えられて入城し常陸府中藩が成立します。
1623年、政乗は出羽国本庄に転封となり、同年皆川広照が1万石で入城します。
1645年、広照の孫である成郷が22歳で没すると無嗣断絶で改易となり、府中は天領となります。
1700年、水戸藩主徳川頼房の5男である松平頼隆が2万石を与えられ、城跡に陣屋を置きます。藩主自身は水戸に常駐しており陣屋には奉行などが代官として置かれたようです。
松平氏は幕末まで藩主を務め、1871年の廃藩置県で最後の藩主頼策が免官した事で陣屋も廃されたようです。

参考

大掾氏 – wikipedia
常陸府中藩 – wikipedia
余湖くんのお城のページ

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コメント

  1. […] この城は1394年に長沼秀光によって築かれたのが始まりと言い伝えられているようです。現在年金事務所がある辺りの字古城と呼ばれている辺りがその伝承地と思われます。 1591年、秀光の6代孫に当る皆川城主皆川広照は前年の小田原の役で後北条氏に与した関わらず徳川家康に投降し所領を安堵され、城を築き皆川城から居を移します。これを持って皆川藩(1.3万石)立藩とも見做されているようです。 広照は家康六男、忠輝の附家老となり、1603年に忠輝が信濃国川中島に転封されると飯山城を与えられ、4万石に加増されます。 しかし1609年、広照は忠輝と揉めて家康の裁定により改易されます。この時家康の命により城は廃城され破壊されたのだそうです。 広照は後に大阪の陣での戦功により大名に復し常陸府中藩主となっています。 […]

  2. […] この城は1180年、所領を与えられた千葉常胤の四男、大須賀胤信によって築かれたのが始まりと言われています。胤信はこの頃石橋山の戦いで敗れて落ち延びてきた源頼朝の下へ父常胤とともに参陣しており、後に大須賀保を与えられて移ったようです。 室町時代には千葉氏14代(もしくは13代)当主満胤の次男、馬加康胤が居を構えます。康胤は常陸府中城主の大掾満幹の養子であったが戻って来ていたようです。 1454年に勃発した享徳の乱において、千葉氏家内でも鎌倉公方方と関東管領方に別れます。当時の当主胤宣は幕府の依頼で関東管領に与する意向でしたが、康胤は鎌倉公方の支援を出張していたようです。 また胤宣は父で隠居していた胤直の後見を受けていました。 そして翌55年、千葉氏重臣で鎌倉公方方の原胤房が千葉氏居館の胤直、胤宣親子を急襲すると康胤もこれに呼応し合流、居館を落とします。 胤直親子は香取郡に落ち延びますが、康胤は胤宣が篭もる多古城を攻め、胤房は胤直が篭もる志摩城を攻めます。 そして8月12日胤宣は康胤に対し開城し自害。3日後の15日には志摩城の胤直も自害し、これにより千葉氏宗家は滅亡します。 また関東管領方の援軍として駆けつけていた常陸府中城主大掾頼幹が胤宣とともに自害しています。頼幹はかつて康胤が養子に入っていた満幹の甥に当たります。 康胤はこれにより千葉氏当主となりますが、翌年幕府より派遣され、他の千葉一族と連合した東常縁に攻められます。既に敗れて馬加へ逃れていた胤房とともに抗戦するも敗れて落城。この時康胤の嫡男胤持が討死したと言われています。康胤は落ち延びるも 翌年上総国八幡で討死し、城は用いられること無くそのまま廃城となったようです。 […]

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