16/3/20 稲村城

昨日は午前のうちに外出し、JR内房線九重駅から西へ600mほどの場所にある稲村城跡へ行ってきました。

(左)東から見た城域遠景。接近すると腰曲輪跡の段々畑が目につきます。
(中)城域東麓にある説明板。この付近に城への案内板があるのですが、向きが変わっていたのか、たまたま同時に訪れていた方と一緒に道を間違えました。
(右)そして辿り着いた城域入り口。民家の間を通っていきます。

(左)東水往来と呼ばれている切通の入り口。
(中)水往来付近から北側の腰曲輪跡を見ます。
(右)城域西側を見ます。現地の案内では中郭とありましたが・・・

(左)水往来から北へ向かう道。
(右)途中に「正木様」と呼ばれる祠を祀った土壇があります。「正木様」は正木氏の子孫が建立したのだそうです。


中郭への道が西側へ向かっていますが、結局手前の畑がそうなのか、その奥にあった平場がそうなのか分かりませんでした。

(左)主郭へ向かう道の入口。
(中)主郭への道。途中は細めの尾根道となっています。
(右)主郭南の堀切。何故か肝心の堀切を中心にした写真がありませんでした。

(左)主郭虎口。
(中)主郭内。虎口から正面(北)を見ます。
(右)主郭東側土塁が見えます。

(左)主郭内説明板。
(中)主郭の土塁。
(右)主郭北側の堀切。

(左)主郭西側の帯曲輪。
(中)帯曲輪から主郭を見ます。
(右)帯曲輪を進みと下り坂になっています。ここから降りられるかと思いましたが、雨で足場が緩くなっていて滑りそうになったので諦めました。

この城はいわゆる前期里見氏である里見氏三代目当主義通が安房支配の本拠として築いたと見られているようです。<br /> しかし1533年から翌34年にかけて勃発した天文の内訌(稲村の変)により、義通、義豊親子は一族の義堯に滅ぼされて里見氏当主は義堯の系統(後期里見氏)に移った見られています。
その際に城は廃城になったようで、戦国初期の遺構を残しています。

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください