この日は昼過ぎに外出してJR成田線下総神崎駅から西北西へ850mほどの場所にある中ノ城古墳付近へ向かいました。
概要
この周辺は中の城を中心として神崎城と呼ばれる城館があったとされています。
神崎城散策
城域まで~中の城

左側は中の城で右側が東の城です。






物見として用いられていたのでしょうか。





並木神宮寺~天満宮
中の城東にある天満宮は支尾根になっていて郭跡と思われます。








東の城
中の城に続いて訪れた東の城は城郭遺構を良く残している様に見えましたが、暗くなってきていて写真撮影が難しくなってきたので途中で断念しました。


ここは右側の道を進みましたが、堀底道だった様です。


神崎城の歴史
本項の記述は「神崎町史 史料集 1」の「神崎城系図」を主な参考資料としています。
神崎城は、下総国に勢力を持った千葉氏一門・神崎氏が居を構えた城とされています。
神崎氏の祖とされる師胤は千葉胤正の子か孫とされ、系図上では神崎氏初代に位置付けられています。
しかし神崎に実際の居館を築きはじめたのは、その子である師時であったと考えられています。
師胤は鎌倉時代初期から幕府に仕え、承久の乱にも関わったとされる人物で、神崎氏がこの地に根を下ろす始まりとなった人物です。ただ実際に神崎に所領を得たのが師胤の師時のどちらなのかは定かでありません。
鎌倉末期、師時の曾孫である胤朝は同族の亘理氏と奥州の所領を巡って争っていた様です。
1330年、争いの結果か殺害事件の咎を受けて所領を没収され、身柄は主家の千葉貞胤に預けられます。
1333年の鎌倉幕府滅亡後、胤朝は貞胤に従って足利尊氏の麾下に加わり、1336年の多々良浜の戦いで戦功を挙げて下総国内に所領を与えられたそうです。神崎の所領も返還された様ですがその時期については定かでありません。また実際には貞胤は1333年から1336年10月まで敵対する宮方(南朝方)の新田義貞麾下だった様です。しかしそれ以後は貞胤が北朝方についたため、胤朝や息子の秀尚は幕府・北朝方として戦った様です。
その後忠尚、胤秀、秀尚(修理亮)と千葉氏家臣として働き、修理亮秀尚の子である朝秀の頃は戦国時代となっていますが、同様に千葉氏家臣として働き1538年の第一次国府台合戦で小弓公方方として参戦した様です。
朝秀の子である朝隆の頃は千葉氏に従って後北条氏傘下となっていて1579年の第二次国府台合戦では後北条氏として里見方を追討した様です。
1590年、小田原の役に際して朝隆は小田原城に入ったそうです。そして戦後千葉氏が没落すると神崎城も廃城となり朝隆は故地で逼塞したと言いますが、実際にどの様になったかは定かでありません。
感想など
神崎城は単独で強固な防御力を持つ城郭ではなく、「中の城」「東の城」「西の城」と呼ばれる複数の小規模な城館から成る集合体として構成されています。それぞれの城館は独立した要害というよりも、居館としての性格が強く、単体で見た場合の防御力は必ずしも高いものではなかったと考えられます。安土桃山時代まで用いられた事を考えられると、全体で見ても防御能力は頼りなく見え、時代を経て増築したもののあくまで在地領主が統治するための居館を域を出ていない印象を受けます。
城の中心である中の城はまとまった平場があるものの防備的には足りないため東の城と西の城で補っていたものと思われます。東の城は時間が足りず外側を軽く見た程度ですが中の城よりは城郭遺構らしきものが見受けられて中の城を支える目的であった事が伺えます。一方の西の城は施設が建設されたなどがあって遺構は残っていなさそうだったので訪れていません。
参考
神崎町史 史料集 1
