23/4/1(2) 下館城

伊佐城を散策した後、五行川に沿って南下して城山八幡神社へ向かいました。

概要

この周辺は幕末まで用いられた下館城の跡だそうですが、市街化により遺構は残っていません。

下館城散策

城域東側の五行川川畔から城域を見ます。

本丸跡にある城山八幡神社。

八幡神社鳥居脇にある案内板。

鳥居のもう一方脇には城跡碑と標柱が建っています。

城域の北側にある定林寺。

定林寺墓地に建っている水谷氏歴代の墓。

下館城歴史

築城~水谷氏

この城は平安時代の940年に藤原秀郷が平将門の乱を平定する際に三舘の一つが前身とされています。
その後戦国時代の1478年、結城氏家臣の水谷勝氏が城を築いたとされていて、その後しばらくは水谷氏の居城として用いられます。
その中でも6代城主正村(蟠龍斎)は武勇で知られていますが、自ら久下田城を築いてその城主となっています。そして1590年に豊臣政権より下館3.1万石を安堵されています。
そして正村の弟である7代城主勝俊は関ヶ原合戦に際して東軍に参加し、その戦功によって結城氏から独立し、さらに久下田領1.6万石を加えて4.7万石の大名として下館藩を立藩しています。
勝俊の子、勝隆は城下や藩内を整備しますが、1639年に備中国成羽に5万石へ移封されます。

天領と1代藩主の時代

同年、水谷氏に代わって松平頼重が5万石で入城し、やはり藩内の整備を行いますが1642年に讃岐国高松に12万石で移り高松松平家の祖となります。
その後しばらくは天領だった後

  • 増山正弥(2万石:三河国西尾より 1663-1702 伊勢国長島へ)
  • 井上正岑(5万石:丹波国亀山より 1702 常陸国笠間へ)
  • 黒田直邦(1.5万石→2万石:旗本より昇格 1703-1732 上野国沼田へ)

上記の様に1代限りの藩主が続きます。

石川氏の時代

1732年、黒田直邦に代わって石川総茂が伊勢国神戸から2万石で移ってきます。
総茂は神戸では47年間の治世で善政を敷き、下館移封に際しては領民が移封へ反対する嘆願書を出したとされています。
そうした後に移ってきた総茂ですが、すでに高齢であったため移封の翌年に没します。
石川氏の治世は幕末まで9代137年に及びますが、8代総貨の治世は飢饉などの影響で農村が疲弊したため二宮尊徳を招聘して藩内を復興したそうです。
最後の藩主総管は幕末において佐幕派であったものの、新政府側に対し協力的な姿勢も取ったいた様です。そこで旧幕府側の土方歳三らが侵入し、さらに新政府軍もやってきて協力を要請をさせると板挟みあって進退窮まった総管は藩内を脱出して水戸に移るという事態もあった様です。
しかし総管はその後新政府側についた事もあってか藩知事も務め、1871年の廃藩置県により下館藩は廃藩、城も廃城となりました。

感想

幕末まで用いられた城ですが、前述した様に市街地化により遺構はほとんど残っていません。
今回の記事を書くにあたってGooglemapを調べていた所、一応付近に堀切などが残っている様です。
ちなみに他の三舘である上舘(後の久下田城)と中舘(後の伊佐城)は訪問済だったので三舘はすべて訪れた事になりますが、距離感を考えれば人によっては一日ですべて訪れる事が可能かも知れません。

参考

現地説明板

下館市史 上・下

下館藩 – wikipedia

水谷氏 – 武家家伝

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