22/9/23(2) 金窪城

金窪南城がある陽雲寺から北東へ500mほどの場所にある金窪城跡公園に向かいました。

概要

この周辺はその名の通り金窪城の跡とされていますが、残っている遺構はごくわずかの様です。

金窪城散策

南から公園の方へ向かう道。
金窪城跡公園。
公園内。
遺構らしきものは見受けられません。
溝状のものがありますが、遺構かどうか不明です。
公園の向かいにある城跡碑など。
説明板。

金窪城歴史

この城は平安時代末期の治承年間に加治家治が最初に築いたと云われている様です。加治氏は武蔵七党の一つ丹党に属する豪族だそうです。
鎌倉時代末期の元弘年間、倒幕側の新田義貞によって築かれて配下の畑時能を守将として配したとされています。その関係で陽雲寺には時能に関する史跡があります。
室町時代の寛正年間、斎藤盛光の居城となったそうです。盛光について詳細は不明ながら、平安時代末期に平家に仕えた斎藤実盛の末裔と云われている様です。
1582年、盛光の曾孫である定利は後北条氏方に属していましたが、織田氏滝川一益との間で起こった神流川の戦いで討たれ城も落城し、斎藤氏は没落したと云われています。
ただ当時の城主は光透と基盛の兄弟でその父は定盛であったとも云われていてはっきりしていません。
1591年、徳川家康が関東入封した際に武田信玄の甥である河窪信俊が旗本として陣屋を置いたと云われています。
1698年、信俊の孫である信貞の頃に丹波国へ転封されたため陣屋は廃止、廃城になったそうです。また信貞の頃、武田姓に復したとされてます。

感想

城は宅地化によって残っている遺構は僅かとされていて、城跡公園内にも明確な遺構は確認出来ませんでした。
ただ歴史的重要性からか県指定史跡となっていて立派な城跡碑も建っています。
そんな城跡碑の裏には明確な土塁が残っているそうですが、こちらは下調べ不足や柵の外側であった事から確認していませんでした。
しかし城跡碑の写真を見返すと裏手の遺構は明確ではあってもひと目でそれと分かる規模でも無さそうなので見落としてしまったという事もありそうです。

参考

現地説明板

日本城郭全集 4

余湖くんのホームページ

神流川の戦い – wikipedia

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