22/7/17 久下田城

この日は昼頃に外出して真岡鉄道久下田駅から南東へ400mほどの場所へ向かいました。

概要

この場所は結城氏に仕えていた下館城主水谷氏が支城として築いた久下田城の跡で、現在も遺構が残っています。

久下田城散策

城域まで

下館駅に停車している真岡鉄道のSLもおか。
久下田駅から向かう途中、県境を越えます。

二郭

南からみた城域へ向かう道。
二郭虎口跡。
虎口脇の空堀跡。右手側のみ残っている様です。
南側から見た二郭内。

主郭

主郭虎口。
主郭虎口右手側の空堀を堀底で見ます。
虎口から見た主郭内。
主郭東側に祀られている稲荷社。
主郭南側の虎口状地形。
主郭南側の空堀。
主郭北東の櫓台跡とされる土壇には東屋が建っています。
主郭東側へ降りて行きます。
主郭東側には水堀が通っています。
水堀。

城域北側

主郭の西側を迂回して北側へ向かおうとしましたが、予想以上に藪だったので迂回は断念しました。
主郭北側空堀。迂回を断念し空堀を通り抜けます。
空堀から城域北側へ向かいます。
二郭北側と思われる場所ですが、山林化著しいです。
城域北側虎口を内側から見たもの。
枡形とも見られています。
主郭虎口周辺を外側から見ます。

久下田城歴史

この城は平安時代、藤原秀郷が平将門を討伐するために築いた三館のうち上館であるという伝承があるそうです。
1545年、結城氏家臣で下館城主の水谷正村が宇都宮方に備えて築いて居を移し、下館城は弟の勝俊に預けた様です。正村は蟠龍斎とも呼ばれ結城四天王の一人としても知られています。
1556年、宇都宮方の八木岡城主八木岡貞家らによる200騎に攻められるも撃退し貞家を討ち取ったとしています。
1557年、元結城方の将で正村の烏帽子子であるとされる武田治部太夫信隆率いる3000騎に攻められるも撃退し、やはり信隆を討ち取ったとされています。
その後豊臣政権期には勝俊を当主とする水谷氏は本来主家である結城氏の勢力を凌ぐ物になっており、独立大名として扱われる様になっていた様です。
1598年、勝俊を藩主とする下館藩が立藩され、その支城となった様です。
1615年、勝俊の子、勝隆の頃に一国一城の令によって廃城になったと見られています。

感想

訪れる前はそれほど期待していなかったのですが、主郭に到達した途端そんな気持ちは吹き飛んでいました。ネットでは主郭も草が伸びて散策に難儀する事もある様に書かれている場合がありたまたま運が良かった可能性がありますが。
主郭を取り巻く空堀は見応えある上見やすくなっています。さらに東側の水堀を見てさらに気持ちが昂ぶってしまいました。
主郭周辺を中心にして全体的に良く残っている城と言えますが、二郭は畑地となっているため探索できる場所は限られています。

参考

余湖くんのホームページ

埋もれた古城

久下田城 – wikipedia

下館藩 – wikipedia

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