22/12/4 東方城

この日は午前中に外出し、JR高崎線籠原駅から北西へ2.5kmほどの場所に向かいました。

概要

この周辺は深谷上杉氏によって築かれたという東方城の跡され、ある程度の遺構が残されています。

東方城散策

城域の南側の道路脇に設置されている説明板に記載されている図。

御所屋敷

御所屋敷は城域西側にあり、主郭と見られている様です。

御所屋敷南西脇を通り抜ける道路。
道路脇に設置された標柱。
御所屋敷南西側南辺の土塁。
御所屋敷西側土塁。
御所屋敷西側郭内。
西側からみた御所屋敷。左手前側には「お庫屋敷」と呼ばれる郭が存在した様ですが、現在は遺構らしきものは見受けられません。
標柱付近から東へ150mほどの道路に沿って御所屋敷東側土塁が残っています。規模は大きく見応えある遺構ですが宅地に隣接していているため登るのは難しそうです。
土塁の東側にある古墳。

お姫屋敷

御所屋敷東側土塁から南東へ200mほどの場所にお姫屋敷と呼ばれる郭があったとされています。

お姫屋敷跡は現在私有地内になっている様です。
付近の民家前に立てかけられた標柱。

城主別邸

お姫屋敷の北側には城主別邸と呼ばれる郭の遺構が残っています。

城主別邸西側土塁。
城主別邸は西側と北側に土塁が残されていますが、この写真はどちら側だったかはっきりしていません。
北側から郭内に進入しますが、郭内は手付かずといった印象です。
城主別邸北側に隣接する道。

東方城歴史

この城が築かれた時期は定かではありませんが、庁鼻和城を本拠とする深谷上杉氏の拠点として用いられたと見られています。
深谷上杉氏重臣矢井重家の弟、重任が城主だったとも皿沼城主岡谷清英の所領であったとも言われている様です。
1590年、小田原の役後に徳川家康が関東入封すると家康の家臣である戸田松平氏の松平康長が1万石で入城し、東方藩が立藩されたともされています。
1601年、康長は上野白井2万石に移され、城はそのまま廃城になったとされています。

感想

単郭の居館を並列的に構成させたような造りが特徴的な城です。
中心的な郭だったと思われる御所屋敷は比較的遺構を確認しやすいですが、それ以外は私有地だったり藪がひどかったりします。
また御所屋敷の南西400mほどの場所にある熊野神社も城域だったと見る向きがありますが、他の郭と比べて離れているため今回は未確認です。

参考

現地説明板

埼玉の城

余湖くんのホームページ

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