14/2/21 館林城

今日は昼を少し過ぎた頃に出て、東武伊勢崎線館林駅から東へ1km程の場所にある館林城へ行ってきました。
市役所付近に標柱があるので場所は分かりやすいです。

標柱裏から道を進むと土塀が見えます。


三の丸入り口にある土橋門。
三の丸はこの城で唯一まともに残っている曲輪で、土橋門はその通用口だったと見られています。

説明板。

曲輪内に入ると井戸跡があります。
入り口正面は土塁と土塀で視界を制限しているようです。

三の丸内に残る土塁はなかなかの物です。
きちんと残っているのは西半分のみで、文化会館敷地となっている東半分はそれほどでは無いように見受けられました。


土塁の上から曲輪内を見た物。

三の丸跡から東へ600mほどの場所にある尾曳稲荷神社はかつて館林城外郭の一部で稲荷曲輪と呼ばれる曲輪だったようです。

この城は築かれた年代は不詳なようですが、赤井照光によって築かれたと言い伝えられていて、築城に関して「狐の尾曳伝説」が残されています。
記録として最も古い物では、「文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略した」という物だそうです。

ただ他資料によると照光が築城したのは弘治2年(1556年)となっています。
しかし他にも説があるようなので、詳細は不明です。

1562年長尾景虎の上野侵攻に際して城主であった照景は抵抗したため攻撃を受け城は落城し赤井氏は落ち延びていきます。
その後は足利長尾氏が城主を務めたようですが、その後越後上杉氏の関東での勢力が後退したため後北条氏に降ります。
1584年、長尾顕長は反北条の佐竹義重の調略で実兄で金山城主の由良国繁とともに後北条氏から離反するも敗れ足利長尾氏も城主を追われる事になります。
1590年の小田原の役では石田三成らの軍に攻められて城主南条因幡守は開場します。
同年に徳川家康の関東入封により榊原康政が城主となり、館林藩が成立します。
榊原氏は1643年まで城主を勤め、大給松平家の治世を経て1661年からは5代将軍となる徳川綱吉が藩主となりますが、1683年に徳川徳松が早世したことにより徳川氏の治世が終わります。
その後も藩主を変えながら幕末まで残り、1871年に最後の藩主秋元礼朝が廃藩置県で免官されたことにより廃城となりました。

現在は外郭は市街地、内郭は一部を残して市役所や向井千秋記念子ども科学館となっており、遺構はそれほど残っていません。
一応本丸の土塁も僅かに残っているようですが、今回は確認していません。

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コメント

  1. […] この城は1333年、鎌倉幕府14代執権北条高時の弟である僧、慧性(北条泰家)によって築かれたと言われているようです。 鎌倉幕府滅亡後、慧性は荒間朝春らとともにこの地へ落ち延び城を築いたと言われています。 その後室町時代の応永年間には多々良忠致の居城になっていたようです。 戦国時代には館林城主赤井氏の家臣である小曽根政義が城主となっていたことから、館林城の支城として用いられていたようです。 その後の詳細は不明ですが、館林城が争奪されるたびに城主も替わっていたと思われます。 そして1590年、小田原の役に際して館林城が落城するとともに廃城になったと見られています。 […]

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