堀江山城
経緯
この城は元々予定外だった城です。
川崎城での探索を終え、城の麓にある東屋で休憩した後駅方面へ戻ろうとしました。
そして道を確認しようとgooglemapを開くと、堀江山城と示された場所が近くにある事に気付いたので足を伸ばすことにしました。
川崎城から南へ直線距離だと5、600m程度といった所ですが、東側へ迂回して移動したため、1km以上の道のりとなりました。
堀江山城散策
(左)北東から見た城域。少し前から酷い夕立が降っている中の移動です。
(右)城域の南にある北久保不動尊。
(左)城域の南西、東北自動車道の高架下から見たもの。雨宿りしつつ天候を伺っていましたが、18時前に降り出した雨は結局18時半頃まで降り続きました。
(右)雨が弱まってきた為、城域南西、高架下から正面に見えていた平場から進入を試みます。
平場から斜面を登り始めるも、暗くなってきていて探索は難しい状態でした。
堀江山城歴史
この城は平安末期、塩谷氏(源姓塩谷氏)によって築かれたと見られています。
源義親の子である塩谷頼純から始まるとされる塩谷氏ですが、その本拠は明らかになっていない様です。
当城か東にある御前崎城のどちらかと見られている様ですが、はっきりしていない様です。
また御前崎城から当城に移転したという説や当城は防御施設で御前崎城に居館を置いていたとする見方もあるようです。
そして源姓塩谷氏5代目朝義の婿養子で、跡を継いだ朝業が北に川崎城を築いて本拠とした後、当城は出城として用いられた様です。
1595年、塩谷氏が改易となると川崎城とともに廃城になった様です。
参考
矢板城
概要
矢板城は矢板駅の西300mほどの場所にあったとされ、現在は金毘羅大権現が建立されています。
現在は市街地化により遺構は残っていない様です。
矢板城散策
金毘羅大権現が立っている高台には城跡碑も建っています。
現在は遺構が残っていないという事もあり、遅くなっても問題無いと考えていました。
矢板城歴史
この城は平安末期に源姓塩谷氏の重臣である矢板盛兼によって築かれたと言われている様です。
その後矢板氏歴代の居城だったと見られている様ですが、度々源姓塩谷氏当主が居を置いたという伝承があるようです。
城がいつ頃廃城になったかも定かでは無く、1590年に藤姓塩谷氏家臣岡本正親が3800石を以って塩谷氏から独立した際に廃城となったか、岡本氏が改易された1644年に廃城になったかのいずれから有力と見られている様です。
参考
矢板城 – wikipedia