堀越館周辺を見た後、南500mほどの場所にある古城天満宮へ向かいました。
概要
この古城天満宮は羽生城の天神曲輪跡とされていますが、城自体の遺構は残っていない様です。
蓮沼と呼ばれる沼地に面して築かれた平城だった模様です。
羽生城散策
羽生城歴史
木戸氏時代
この城は1540年頃、山内上杉氏に従っていた広田直繁、木戸忠朝の兄弟によって築かれたと言われています。
1554年、後北条氏によって城は落とされ、北条家臣の中条出羽守が城代として置かれた様です。
1560年、上杉謙信が関東出兵を行うと、直繁・忠朝兄弟は上杉方に付き、直繁は中条出羽守を攻めて城を奪還します。一方忠朝は謙信によって忍城の支城である皿尾城に置かれた模様です。
1569年、武田信玄が関東出兵に出兵したことにより、北条氏と上杉氏は同盟を結びます。それにより羽生領は上杉方の領有が認められます。
1570年、直繁は館林城へ移されたそうで、代わって皿尾城主である忠朝が羽生城主を兼任することになります。
1571年、北条氏康が没した事で同盟が破綻すると、羽生領や近隣は再び後北条方と争いが起こります。翌72年には忠朝は後北条方である北条氏照や成田氏の軍勢に敗れています。
1573年、深谷城の深谷上杉氏を降した北条氏政の軍勢に攻囲されます。
1574年、謙信は忠朝らを救援するため出兵するも後北条方の妨害もあって上手く行かず落城したと言います。忠朝は城を破棄して上野膳城へ落ち延びたとも、亡き直繁の子である為繁とともに討ち死にしたという見方もあるなどはっきりしていません。
木戸氏以降
木戸氏が没落すると、後北条方である忍城主成田氏長の支配下となり、忍城の支城として用いられます。
氏長は一族である長親や善照寺向用斎の他、野沢民部などが城代を務めたと言います。
1590年、小田原の役に際しては城代の向用斎が忍城に籠城したため、戦わず開場したと思われます。
同年、関東入封した徳川家康の家臣である大久保忠隣が羽生領2万石を与えられます。しかし入城せず家臣である匂坂道可や徳森伝蔵が城代を務めたそうです。また道可は木戸氏遺臣だそうです。
忠隣は1594年に父忠世が没した際に小田原藩主の地位を継ぎ、小田原城に入城します。それにより小田原、羽生合わせて6.5万石を領した模様です。
1614年、忠隣は改易されます。それにより城は廃城となったそうです。