この日は昼過ぎに外出して、JR総武線幕張駅から北へ1kmほどの場所へ向かいました。
概要
現在主にマンションが建っているこの場所は、馬加城の跡と言われていますが、遺構は全く残っていません。
馬加城周辺散策
南から見た城域遠景。
城域は現在マンションが建っています。
そういう訳でマンションが立つ高台の下までたどり着いたところで、付近を行き交う近隣住民の方々と高台をざっと見た所で南東の三代王神社へ向かいます。
三代王神社は城域がある高台の南端に当たり、道路から石段を少し登ります。
神社東側の壁面。
高台の南東端に当る場所で道路拡張工事を行っていた所、堀跡らしき溝の遺構が見つかったのだそうです。
城域と同じ高台上にある事から、城の防御施設との見方もあるようです。
馬加城歴史
築城から馬加康胤まで
この城は1180年、所領を与えられた千葉常胤の四男、大須賀胤信によって築かれたのが始まりと言われています。胤信はこの頃石橋山の戦いで敗れて落ち延びてきた源頼朝の下へ父常胤とともに参陣しており、後に大須賀保を与えられて移ったようです。
室町時代には千葉氏14代(もしくは13代)当主満胤の次男、馬加康胤が居を構えます。康胤は常陸府中城主の大掾満幹の養子であったが戻って来ていたようです。
享徳の乱
1454年に勃発した享徳の乱において、千葉氏家内でも鎌倉公方方と関東管領方に別れます。当時の当主胤宣は幕府の依頼で関東管領に与する意向でしたが、康胤は鎌倉公方の支援を出張していたようです。
また胤宣は父で隠居していた胤直の後見を受けていました。
そして翌55年、千葉氏重臣で鎌倉公方方の原胤房が千葉氏居館の胤直、胤宣親子を急襲すると康胤もこれに呼応し合流、居館を落とします。
胤直親子は香取郡に落ち延びますが、康胤は胤宣が篭もる多古城を攻め、胤房は胤直が篭もる志摩城を攻めます。
そして8月12日胤宣は康胤に対し開城し自害。3日後の15日には志摩城の胤直も自害し、これにより千葉氏宗家は滅亡します。
また関東管領方の援軍として駆けつけていた常陸府中城主大掾頼幹が胤宣とともに自害しています。頼幹はかつて康胤が養子に入っていた満幹の甥に当たります。
千葉氏当主から落城、廃城
康胤はこれにより千葉氏当主となりますが、翌年幕府より派遣され、他の千葉一族と連合した東常縁に攻められます。既に敗れて馬加へ逃れていた胤房とともに抗戦するも敗れて落城。この時康胤の嫡男胤持が討死したと言われています。康胤は落ち延びるも
翌年上総国八幡で討死し、城は用いられること無くそのまま廃城となったようです。
この一連の騒動の結果、千葉氏宗家は滅亡。生き残った者は武蔵国に落ち延び武蔵千葉氏となります。
そして討伐された康胤親子に代わり岩橋城主の岩橋輔胤が千葉氏当主となります。
感想
現在の城は遺構が残っていない事は一目瞭然です。「千葉氏の戦国時代城館跡」によればマンション建設に先立って発掘調査が行われたようですが、遺構は少なく現在でもどのような構造だったかはっきり分かっていないようです。
参考
日本城郭全集3
千葉市の戦国時代城館跡
余湖くんのホームページ
千葉氏の一族
千葉市の遺跡を歩く会
さわらび通信