目次
概要
この日は昼前に外出して、JR烏山線烏山駅から北へ1.5kmほどの場所にある宝亀山神社付近へ向かいました。
寿亀山神社も含め裏手の山が烏山城の城域で、現在も遺構が残っています。
烏山城散策
筑紫山~城域まで
(左)烏山庁舎付近にある標柱。自分はつられてここから進入しましたが、ハイキングコースを縦断することになりますので寿亀山神社へ直行した方が手っ取り早いではあります。
(中)ハイキングコース入り口。
(右)山道を登っていきます。
(左)展望台。
(中)展望台付近にある毘沙門堂。
(右)尾根道を辿って北へ歩きます。
城域手前にある筑紫山山頂。
落ちてしまっている案内板によれば標高199.4mとの事です。
太鼓丸~常磐曲輪
(左)ようやくたどり着いた城域入り口。
(中)標柱。
(右)堀切。
(左)堀切を渡った場所にある常盤門跡。
(右)門跡の物と思われる石積み遺構。
(左)さらに登ると石垣が見えてきます。
(中)石垣。
(右)石垣の上にあたる場所には塩倉跡(常盤曲輪)があります。
(左)常盤曲輪脇にある説明板。
(右)本丸手前にある吹貫門跡。
本丸、古本丸
(左)本丸虎口にあたる正門跡。
(中)正門跡の石垣。
(右)正門外縁に残る石積み。
本丸空掘跡。
(左)本丸内。
(右)本丸説明板。当初は二の丸として築かれたのが後に実質的な本丸になったのだそうです。
(左)本丸と古本丸間の堀切と土橋。
(右)堀切。
(左)古本丸内。
(中)古本丸内の土塁。
(右)古本丸北側の空掘。
中城、北城
(左)古本丸北にある中城と呼ばれる曲輪。
(中)中城北の堀切。
(右)中城の北側堀切は他の曲輪へ移動する通路にもなっています。
(左)中城と堀切を隔てて北側にある北城と呼ばれる曲輪の虎口。
(中)北城内。
(右)北城西側の土塁。
西城
先程の堀切から本丸西側へ向かう道。
(左)西城と呼ばれている曲輪群。西に向かって下りながら三段ほどの曲輪があります。
(中)一段下った曲輪から東側を見ます。
(右)西城北側の空掘。
本丸東
(左)本丸東側空掘。
(中)空掘北側。古本丸の北東にあたる場所にある桜門跡。標柱前にある石は礎石のようです。
(右)本丸東側にあたる場所にある厠跡。
本丸と古本丸間の堀切を東側から見たもの。
七曲り~三の丸
(左)帰路に下った七曲りと呼ばれる登城道を途中で見たもの。
(中)七曲りを下り、寿亀山神社前にある説明板。斜めになっているのに気づかなかったのは散策終えて疲れていたためでしょうか。
(右)寿亀山神社。
(左)寿亀山神社境内北側の曲輪(三の丸)跡。
(中)三の丸跡を下った所に切り通し口があります。虎口でしょうか。
(右)切り通し口から見た三の丸。
(左)三の丸の石垣。
(右)東側から見た城域遠景。
烏山城歴史
築城から那須氏統一まで
この城は1417年に那須資重によって築かれたと言われています。
資重は福原城主那須氏11代当主資氏の子で12代資之の弟に当ります。、
しかし資重は資之に疎まれており、また1416年に起こった上杉禅秀の乱で禅秀方についた資之に対し、勝者となった鎌倉公方方についていた為その後ろ盾を得ていました。
その為那須氏は福原城の資之(上那須家)と烏山城の資重(下那須家)と分裂状態となります。 1492年より資重の孫に当たる資実により城の拡張が行われ、現在の本丸などが増築されたようです。
1514年、那須氏15代当主で上那須家の資親没後、実子資久と養子資永で家督争いが起こります。資実の子資房は資久を支持しますが資久は資永に殺害されます。
その為資房は那須氏家臣である大田原資清とともに福原城を攻めて資久を自害に追い込み、実質的に那須氏を統一します。
以来、烏山城は戦国時代を通じて統一された那須氏の居城として機能します。
戦国時代から那須氏退去まで
資房の子、政資は嫡男高資と対立して末に家督を奪われて城を追われますが、1539年に宇都宮氏、佐竹氏、小田氏らの支援を受けた政資が高資を攻めたりしています。
しかし1544年には正式に家督を譲って隠居したようです。
その高資は1549年の喜連川五月女坂の戦いで宇都宮氏当主尚綱を討ちますが、1551年に宇都宮氏重臣芳賀高定の謀略で殺害されます。
高資の跡を継いだのは弟である資胤ですが、当初佐竹氏と結んでいましたが、1555年に後北条氏と結んだことにより佐竹氏の攻撃を受けるようになります。
1563年から1567年に掛けて幾度となく攻撃を受け城下まで攻められますが、その度に撃退していたようです。
1570年にも佐竹氏の攻撃を受け、城下にまで攻められます。
1572年に佐竹氏と和睦しています。
1583年、資胤没後に佐竹氏が宇都宮氏と共に城下まで攻めてきますが、資胤の子資晴はこれを撃退します。
1590年、資晴は小田原の役に参陣しなかったため改易されます。代わって織田信長の次男で移封を拒んで改易されていた織田信雄が入城し短期間居を置いていたようです。
成田氏による烏山藩成立から那須氏改易まで
1591年、かつて後北条方で忍城主だった成田氏長が2万石を与えられて入城し、烏山藩が立藩します。
1622年、成田氏は家督争いにより改易されます。
1623年、松下重綱が常陸国小張から2万石で入城します。
1627年、重綱は陸奥国二本松へ移封されますが代わって堀親良が真岡より2万石で入城します。
この良親とその子親昌の堀氏の時代に城と城下が整備されます。
親良は城の東側からの登城道である七曲と十二曲を造り、親昌は山麓に政庁として三の丸を築きます。これにより城は現在の形になったと考えられます。
1672年、親昌が信濃国飯田に移封すると、幕府老中の板倉重矩が5万石で入城します。
重矩の子重種は城下町を区画整理するなど様々な整備事業を行ったようです。
1681年、重種が武蔵国岩槻へ移封されると、大名に返り咲いていた那須氏当主の資弥が2万石で入城します。
1687年、資弥没後、養子の資徳が継ぎますが、実子の資寛との間に家督争いが起こります。(烏山騒動)
これにより那須氏は1590年の改易、1642年の無嗣断絶に続いて三度目の改易。以後大名に戻ることはありませんでした。
那須氏以後から廃城まで
那須氏の後は永井尚敬(3万石:1687-1701 播磨国赤穂藩へ)稲垣重富・昭賢(2.5万石:1702-1725 志摩国鳥羽藩へ)と続きます。
1725年、幕府若年寄(後に老中)の大久保常春が2万石で入城し、以後幕末まで大久保氏が藩主を勤めました。
1869年、大久保氏8代目藩主忠順の頃に版籍奉還により廃城となりました。
その後1872年から翌73年に掛けて災害などで城内の建造物は失われた模様です。
簡単な感想など
予定外のハイキングをしたり、城域が杉林だったためか終始鼻がグズグズしたりしてましたが、見応えはあったと思っています。