この日は昼頃に外出して、東武佐野線吉水駅から北東500mほどの場所にある興聖寺へ向かいました。
概要
この興聖寺付近は清水城の跡と言われており、興聖寺境内はかつての本曲輪跡なのだそうです。
清水城散策
本曲輪跡
(左)南から見た本曲輪遠景。この日は雨天のため駅近の場所を選び、傘を差しながらの散策でした。
(中)山門前に標柱と説明板があります。
(右)説明板。
(左)興聖寺山門。両脇には土塁が残っています。
(中)右手側(北側)土塁。
(右)石段を登り土塁上から本曲輪跡である境内を見ます。
(左)山門内の枡形状になった土塀。かつての形を再現したものかは分かりません。
(中)本曲輪南側土塁。
(右)南側空堀跡。北側の物と比べて埋まり具合が大きいように見えます。
二曲輪(吉水陣屋)跡
(左)城域東側、新吉水第一公園には城と吉水陣屋について記したと思われる石碑があります。この辺りは二の曲輪跡に置かれた吉水陣屋跡でもあります。
(右)公園内にある盛り土は土塁が残ったものだそうです。当然陣屋でも用いられていたでしょう。
清水城、吉水陣屋歴史
この城は1228年に佐野国綱が一族の岩崎義基の為に築かせたと云われています。
その後岩崎氏の居城でしたが、1521年に城主重長が岩崎城へ移り、佐野氏当主秀綱が居を置きます。
秀綱は居城唐沢山城の改築なども行っているため一時的かあるいは平時の居城だったのかも知れません。
その後も唐沢山城の支城として用いられたと見られていますが、1614年に佐野氏が改易されたため廃城となります。
1616年、吉水は小山藩主本多正純の所領となり、城跡の二の曲輪内に陣屋を置きます。
1619年、正純は自らの権勢を以って小山藩5万3000石から宇都宮藩15万5000石と大幅加増しますが1622年に宇都宮城釣天井事件で失脚、改易となりその際に陣屋も廃城になったと思われます。
参考
現地説明板
栃木の城+α