この日は遅めの時間に外出しました。
概要
そして東武日光線南栗橋駅から南東2kmほどの場所にある法宣寺付近へ向かいました。
この法宣寺の西側には栗橋城がありましたが、現在残っている遺構は多くないようです。
栗橋城散策
(左)城域北西、権現堂川の橋から城域方面を見ます。川に面し、水運の一端を担う重要拠点だったようです。
(中)城域東には説明板がありますが、文字が掠れて読み取るのが難しい状態です。
(右)説明板脇から進むと外郭跡と見られる場所に民家があります。そしてその入口付近には堀跡があります。
(左)堀跡。見通しが悪く、よく確認出来ませんでした。
(中)城域東の法宣寺。遺構は主にこの裏手に残っているようです。
(右)法宣寺裏手を北側から見たもの。遺構があると思われる場所が確認できますが、近寄る事は出来ませんでした。
栗橋城歴史
この城がいつ頃築かれたかはっきりしていませんが、戦国時代には古河公方の重臣野田氏が城主であったようです。
古河公方家の内紛や後北条氏の介入により、後北条氏の影響力が強まる中、1554年には古河にて足利晴氏とその嫡男藤氏が後北条氏に抵抗して籠城します。
栗橋城主野田弘朝はこれに対し後北条氏を後ろ盾とする義氏に従い鎮圧します。
1557年、晴氏、藤氏親子が義氏を打倒しようとしたため捕縛しています。晴氏は栗橋にて没しています。
1560年、上杉謙信が藤氏を擁立して関東へ侵攻すると、弘朝は弟の景範と共に義氏が拠る関宿城に籠城しています。
しかし1566、弘朝の跡を継いだ景範は上杉方に従いますが、後に離反します。
そして翌67年、後北条氏の要請により、景範は城を明け渡すことになります。
1569年に城主に復帰するものの、後に後北条氏から離反し攻められて落城します。
景範は後北条氏に帰参しますが、野田氏が城主に復帰することはありませんでした。
その後は後北条氏が関東北部へ進出するための拠点の一つとなります。
そして1590年小田原の役後、徳川家康の家臣である小笠原秀政が古河に封じられます。秀政は古河城を修復する間この城に居を置きますが、まもなく古河に移り廃城となりました。