概要
今日は昼過ぎに出て、JR外房線勝浦駅から南へ2kmほどの場所にある八幡岬公園へ行ってきました。
ここは勝浦城があったとされている場所です。
写真は勝浦港から見た城域遠景。
ちなみに暑いから海を見てみたいと言うのが大きな理由です。
勝浦城散策
本城域
城跡である八幡岬公園へ向かう道。
長々と続く尾根も城域だったようです。
八幡岬公園入り口と公園内から勝浦湾を見たもの。
公園内にある広場はかつての曲輪跡でしょう。
その付近からは八幡神社へ続く道があります。
本曲輪と思われる展望広場にはお万の方(養珠院)の像があります。
城主である勝浦正木氏当主、正木頼忠の娘でしたが後に関東入封した徳川家康に見初められて側室となり頼房、頼宣をもうけたのだそうです。
城が落とされた際に城から布で海岸に降り、そこから船から安房へ逃れたと言う「お万の布晒し」の言い伝えがあるのだそうですが、何時のことなのかは定かではありません。
外郭
帰りは尾根上から戻る事を試みます。
鳴海神社の北には新地ヶ台と呼ばれる曲輪群があるのだそうですが、道に踏み込もうとした途端、虫の羽音らしきものが聴こえたので諦めました。
引き返して別の道から降りて帰りましたが、薄暗いなか狭いトンネルを歩くのは回避出来たのでよしとします。
新屋敷と呼ばれる地域。
ここの北にある遠見岬神社辺りが城域の北端と見られているようです。
勝浦城歴史
この城の築造年代は定かではりませんが、真里谷武田氏に依る物とされています。
1544年に里見氏に従っていた正木時茂が真理谷氏を滅ぼすと、弟の時忠が勝浦城に入り勝浦正木氏と呼ばれるようになります。
時忠は第二次国府台合戦で里見氏の力が弱まると後北条氏側に寝返りますが、再び里見方に復帰したりしてます。
時忠の跡を継いだ頼忠は、1580年に里見氏の後継者争いで里見義頼に対し反旗を翻した正木憲時と、義頼方として抗戦していますが、その際に一度は落城したと言われています。
頼忠はその後も里見氏傘下の城主でしたが、1590年の小田原の役後に里見氏が上総国を没収されたため城は廃城になったとされています。