2021年末 12/30 沼田城

この日は午前中に外出して、JR上越線沼田駅から北東に700mほどの場所にある沼田城址公園へ向かいました。

概要

この場所は名前通り沼田城があった場所となっています。
沼田城は沼田氏によって築かれ、後に真田氏に用いられた事で知られています。

沼田城散策

城址公園入り口。
入り口から入った所には標柱、説明板、城跡碑があります。
公園奥の花園は本丸跡の様です。
本丸跡に建造された鐘楼。1634年、真田信吉によって鋳造された城鐘が保存、活用しようとしたのが始まりだそうで、現在用いられている城鐘は複製だそうです。
本丸跡にある御殿桜。
真田信之と妻小松姫の像。
本丸西の櫓台(乾櫓跡)入り口。
現在は進入禁止となっています。
櫓台の石垣。
この城で最も見応えある遺構と言えます。
本丸北にある捨曲輪。
古城とも呼ばれかつては本丸だったとされています。
捨曲輪北東には天狗面を飾っているという天狗堂があります。
本丸と捨曲輪間の堀状地形。
本丸と二の丸間の水堀。
僅かに残っています。
二の丸土塁跡。
城址公園駐車場脇の三の丸土塁跡。

沼田城歴史

室町時代~戦国時代

この城は1532年、山内上杉氏に仕える沼田顕泰によって築かれたそうです。
沼田氏は三浦氏の流れを汲むと云われていて、顕泰は父泰輝が築いた幕岩城から居を移したとされています。
しかし1546年の河越合戦で山内扇谷両上杉氏が没落すると、上野国にも勢力を広げてきた後北条氏に従属することになります。この時、後北条氏の北条氏秀が城主となり沼田康元と名乗ったとも言われている様です。
1560年に上杉謙信が関東に侵攻した事を契機に、沼田氏は後北条方と上杉方の間で揺れ動いていた様です。ただこの頃の沼田氏はいくつかの記述があり動向は定かでありません。また顕泰と息子である朝憲らとの間で内紛が勃発し沼田氏は徐々に没落していった模様ですが、沼田は上杉方であった様です。
1578年、上杉氏で御館の乱が勃発した際に城は後北条方に渡ってしまいます。
1580年頃、武田方である真田昌幸の手に落ちます。上杉方が関東どころでは無い為、対後北条として上杉と武田で協定があったとも見られている様です。
1581年頃、顕泰の子である景義が城の奪還を目指すものの、真田軍に討たれて沼田氏は滅亡したとされています。
1582年、甲州征伐により武田氏が滅亡すると滝川一益の甥である益重が拠点として用いた様です。しかし同年に勃発した本能寺の変後に起きた天正壬午の乱に際して昌幸に再度攻略されて支配下に置かれます。
1589年、豊臣秀吉の裁定により沼田は後北条氏、名胡桃城は真田氏と定められます。しかしこれが小田原の役に繋がることとなります。
1590年、小田原の役後真田氏に返還され、昌幸の長子信之が城主となります。その後信之によって城は整備されたとされています。

真田氏沼田藩時代

1600年、関ヶ原の戦いに於いて信之は父昌幸、弟信繁(幸村)と別れて東軍についた信之は戦後昌幸の上田領を与えられます。これにより9.5万石の上田藩が立藩されますが、信之自身は沼田に居を置いていたそうです。
1615年、信之は嫡男信吉に沼田領を譲り自身は上田領に移ります。ただ信之は1622年に信濃国松代へ10万石で移されます。沼田領は引き続き真田氏の所領とされ松代藩の支藩とされます。
1656年、松代藩主信之が93歳という高齢で隠居し同年死去します。信吉は既に没していた為、その弟である信政が沼田藩主となっていた為信政が松代藩主となり、信吉の子である信利が沼田藩主となります。
1658年、松代藩主信政が没すると信政の嫡男である幸道と信利の間で家督争いが起こります。結果幸道が松代を継承した為、信利は松代藩から独立します。同年、信利は藩内の検地を行い、表高3万石だった所を松代藩より14.4万石と幕府に申告します。これは松代藩への対抗意識からと言われていますが、信利は本来真田氏の嫡流といえる血筋の為それが影響したかも知れません。しかし沼田藩の実高6万石程度だったともされていますがいずれにせよ倍以上の負担には領民に課した訳で、更に江戸の藩邸も松代藩の物以上の豪奢な造りにしたと言われています。
1681年、前年に流出した江戸両国橋の架橋工事に用いる用材調達を幕府から請け負ったにも関わらず納期限を守れなかった事とかねてからの暴政で改易となります。これはやはり前年に5代目将軍綱吉就任に伴い信利の後ろ盾だった大老酒井忠清が失脚した事も影響したと見られているようです。
信利改易後、城は破却され堀も埋め立てられたとされています。

真田氏以後

信利改易後天領となりましたが、1703年、下総国舟戸より本多正永が移封されます。正永は当初2万石程度でしたが、最終的には4万石まで加増された様です。
また本多氏以降は破却された影響かかつての3の丸に居を置く程度だった様です。
1730年、正永の甥で、正永長子正武の養嗣子である正矩が駿河国田中へ移されます。
1732年、黒田直邦が常陸国下館より3万石で移されます。
1742年、直邦の養子で、 正矩 の実子(次男)である直純が上総国久留里へ移されます。
同年、京都所司代だった土岐頼稔が3.5万石で移され、土岐氏の治世が幕末まで続くことになります。
1868年、戊辰戦争に際して藩主頼知は新政府に恭順します。そして新政府軍の進駐を許し、沼田藩の兵も含むその軍はその後三国峠の戦いで会津軍と交戦しています。
1871年、廃藩置県により頼知は免官され、城も廃城となったそうです。
1916年より旧沼田藩士で政治家の久米民之助により城跡が購入され公園と整備された模様です。
1926年、城跡は沼田市に寄贈され現在に至っています。

感想

真田氏改易に際しての破却の為か、石垣、土塁、堀といった遺構は断片的に残っているものの城の構造はあまり原型を残していない様に感じられました。
この城を訪れてもっとも感じられたのが、案内が非常に少ないという点で、城の縄張りに基づく案内が現地でほとんど無いのが気になりました。
例えば自分は滝坂という坂を登ってから城内へ向かいましたが、滝坂を登りきった所は何か門があってもおかしくない雰囲気だったのですが現地では特に何も案内は見受けられませんでした。
そして後に帰り際沼田駅で入手したパンフレットを見ると滝坂門という門があった事が分かりました。
皆が皆パンフレットを入手して訪れる訳では無いため、パンフレットが持ってないと真田氏時代の規模が実感出来ないのは非常に残念だしもったいないと思いました。

参考

現地案内板

真田氏時代の沼田城下町(パンフレット)

沼田城 – wikipedia

沼田氏 – wikipedia

沼田氏 – 武家家伝

沼田藩 – wikipedia

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