この日は夕方前から徒歩で真間山弘法寺へ。
ここは市川城跡と比定されている場所です。
(中)弘法寺山門。
(右)弘法寺境内の鐘楼。鐘楼が建っているのは土塁跡と思われる場所です。
(左)弘法寺仁王門。
(中)鐘楼が建っている土塁跡とされる盛土を境内側から見たもの。
(右)鐘楼の北にある枝垂れ桜。後方に見える盛土も土塁跡と考えられます。
(左)境内西側にある弘法寺古墳。断崖に沿って造営されており、城の防衛設備として利用された可能性もありそうです。
(右)城域西側にある切通道。城域からこの道を下ると国府台城付近に出ます。
市川城は1455年に勃発した享徳の乱における、千葉氏宗家最後の拠点になった場所とされています。国府台城の同一視されることも多いものの、国府台城は1478年に太田道灌が築いた陣城とされていることから別の城と見る向きが多いようです。
別の城郭とした場合に市川城と比定されているのが真間山弘法寺であるとされています。
1455年、関東管領上杉氏に付いた千葉氏16代当主胤直と18代当主胤宣が古河公方側の馬加康胤、原胤房らに攻められ、それぞれ志摩城、多古城で自刃し千葉宗家は滅亡します。
胤宣の従兄弟にあたる実胤、自胤兄弟は市川城に落ち延び防戦するも持ちこたえられず武蔵へ逃れて武蔵千葉氏と呼ばれるようになります。
また市川城で戦死した将兵の多くが日蓮宗門徒とされ、弘法寺が737年創建で鎌倉時代以降日蓮宗の寺院であったことから市川城は寺院を要害化したものとも考えられているようです。