さて、英祖が王位を継ぐまでと、英祖生誕にまつわることは説明しました。
英祖が浦添にて中山王の位についたのは1260年といわれています。中山王、浦添の勢力範囲は本島全域には広がっていなかったと見るべきでしょう。北と南で小、中規模の按司たちが勢力争いをしていたものと思われます。実際「おもろさうし」にも英祖が戦に出陣するさまを記述したものもあるようですので・・・
英祖王統
1 英祖―2 大成―3 英慈―4 玉城―5 西威
玉城王の頃、この王が凡庸であったため、英祖王統は衰退します。それに伴い南北での争いの結果、『北山』『南山』と呼ばれる大勢力が出現します。これは按司たちが勢力争いを続けた結果、弱い勢力から淘汰、併合された結果と思われます。また玉城王は玉城グスクを改築して住んだ、という伝承もあるようです。
最後の王西威は即位時幼少であったため、母親が実権を握ります。時代は三山時代へ入りつつある頃です。
そして西威王の死後、世の乱れが治まらないため、諸臣たちが王位に立てたのは察度でした。時は1349年。
こうして英祖王統は5代89年で滅びます。