水戸市内で一泊して翌3日はまず水戸城周辺から散策しました。
水戸城の城域へはまず水戸駅前の銀杏坂から東に歩き三の丸に進みます。
(左)この辺りも一応水戸城の城域ですが、面影は殆どありません。 もっとも水戸城自体遺構は断片的ですが・・・
(右)三の丸内にある学校の校門。冠木門になっています。
弘道 館
(左)水戸城三の丸内にある弘道館正門遠景。ちなみに正門は現在入口として使用されておらず向かって右手側にある入口から出入します。
(中)敷地内。左手の建物が正庁。右側のやや奥まった所にある建物が至善堂です。
(右)正庁南端部から西側の見たもの。建物内の正席の間から外の対試場を見ることが出来ます。
(左)正面入り口。扉には弾痕があります。
(中)南側にある対試場。武術の試験が行われた場所だそうです。試験の際には藩主や重臣が正席の間より見ていたとのこと。
(右)正席の間。試験や儀式の際には藩主がこの部屋に臨席していた模様です。
弘道館は水戸藩九代目藩主徳川斉昭の頃に水戸藩の藩校として建てられたもので、水戸城三の丸内にて1840年に着工し翌年に開校しました。
文武両道を教育方針とし剣術や馬術などの諸武術の他に医学、薬学、天文学、蘭学といった幅広い学問の教育も行われました。
ただ間もなくやってきた幕末期になると藩内の改革、尊王攘夷派である天狗党と保守派である諸生党の対立が起こるようになり、それが1864年の天狗党の乱、1868年の弘道館戦争といった形で現れます。
天狗党の乱で天狗党や改革派は一旦力を失いますが、戊辰戦争勃発で諸生党が賊軍扱いとなったことで状況は一変し、諸生党は会津藩へ向かい幕府側として参戦するも敗れます。
その際に戊辰戦争参戦によって手薄となっていると考えて水戸城へ向かいますが天狗党や改革派がすでに防備を固めていたため入場できず弘道館を占拠して立てこもりました。
戦いは終始改革派が優位に進め二日ほどで終結したものの正門、正庁、至善堂以外の建物は焼失し蔵書なども失われたと言います。
諸生党は弘道館から逃れるも下総八街道にて改革派率いる水戸藩軍によって壊滅したのだそうです。
(左)弘道館向かい側にある二の丸虎口。ここの虎口は枡形になっています。
(中)堀の現状。県道が走っている模様です。
(右)土塁と説明板。堀、土塁共に大規模なものだったと見受けられます。
(左)二の丸内。ここは主に学校敷地となっていて面影は残っていません。
(中)建築物があった場所には説明板が設置されています。
(右)水戸城の大シイと呼ばれる大木。戦国時代から自生していると見られており、樹齢400年と超えるそうです。
(左)本丸入り口。ここも現在は学校敷地となっています。ちなみにこの時学生が橋で何らかの撮影を行っていたので少し待ち時間がありました。
(中)そして空堀の現状。JR水郡線が走っています。
(右)本丸内の土塁と説明板。二の丸の土塁と比べると小規模という印象。
(左)本丸内に移築されている薬医門。本丸橋の脇に設けられていたと思われます。
(右)本丸遠景。
水戸城の始まりは平安時代にまで遡ると言われています。平国香の子孫である馬場維幹が城を築き居城にしたのだそうです。馬場氏は常陸国大掾の役職を世襲したことから大掾氏を名乗るようになります。
その大掾氏は室町時代の上杉禅秀の乱において上杉氏憲(禅秀)側に参戦し室町幕府方と戦うも敗れます。その戦後処理において水戸城は江戸道房に与えられますが、大掾氏当主満幹はこれを拒絶し居座ります。結局満幹が留守の間に江戸氏の攻撃により落とされ満幹も後に殺害されます。
この後大掾氏は存続するもののその勢力大きく衰えたようです。
その後戦国時代を通して江戸氏が支配します。その中で江戸氏は佐竹氏に従属するも独自の勢力を保ち続けましたが、小田原の役の際に後北条氏と結んでいたため豊臣方に参陣せず、一方の佐竹氏は参陣したことで常陸54万石安堵とします。
佐竹氏はこれを理由に江戸氏領に侵攻し水戸城を攻略。江戸氏当主重通は結城氏の下へ落ち延び、大名としての江戸氏は滅亡します。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて東西どちらにつくか揉めた末に結果として中立の立場となった佐竹氏は江戸に近いこともあってその勢力を削がれることになります。
1602年、佐竹氏は水戸54万石から秋田20万石に転封され、徳川家康の五男、武田信吉が佐倉(北大堀御殿山館?)より転封されます。
信吉は翌年没しますがその後は異母弟の頼宣(1603~1609)が入りついで頼宣が駿府に転封されたあとは頼房が入城し以後水戸藩は頼房の子孫が藩主を務めます。
ちなみに水戸で連想されるであろう光圀は頼房の三男で二代目藩主です。大日本史編纂を通じ日本本来の伝統を追求する水戸学の祖と呼ばれるようになり、水戸藩に尊王の気風が植え付けられるきっかけになったようです。
それと水戸徳川家の水戸藩主はなぜか中国風の諡号が付いているのが印象的でした。初代頼房は「威公」二代目光圀は「義公」九代目斉昭は「烈公」と言った具合です。
水戸東照宮
1621年に初代藩主頼房が父家康を祀るために創建したのが始まりだそうです。
現在に至っては当の頼房も祀られていますが、これは明治に入ってから配祀された模様です。
黄門神社(義公祠堂)
徳川光圀生誕の地だそうです。
徳川光圀は1628年、家老三木仁兵衛之次邸で生まれたと云われ、この場所がその邸宅のあった場所なのでしょう。
水戸駅前にて
(中)水戸駅前から北に伸びる道。この道が二の丸の空堀に繋がっています。
(右)水戸駅前の銅像。