年末の休みを利用して一泊二日で上総、安房へ遠征しました。
午前のうちに出かけましたが移動に手間取ってこの日の目的だった久留里城へ到着したのは昼過ぎのことでした。
(左)久留里線。電車ではなくディーゼル車です。
(中)商店街を抜けた後に見える、城跡へ向かう道の入り口。
(右)城跡へ向かう途中のトンネル上に残る城山神明社は狛犬は日本犬だそうです。この辺りから久留里城旧道を進みます。
(左)久留里城旧道。
(中)道沿いにある火薬庫跡。
(右)二の丸へ向かう途中にある堀切跡。現在は埋まっていますが、横から断面を見ることができます。
(左)二の丸付近にあるお玉が池。里見義堯の家臣、小川秀政の娘お玉が掘ったと言われる云われているそうです。
(中)二の丸へ向かう道。左手側が二の丸です。
(右)二の丸に隣接している薬師曲輪。物見的役割だったのかも知れません。
(左)薬師曲輪の案内板。
(中)薬師曲輪からの景観。
(右)二の丸内。二の丸には写真の復元土塀の他に資料館(年末休業中でした)新井白石像などがあります。
(左)本丸の手前にある天神曲輪。
(中)男井戸、女井戸。篭城の際に水の手として機能したそうです。
(右)本丸には天守風展望台があります。
(左)天守の脇にある天守台。
(中)天守台裏手の土塀跡。
(右)本丸には天神曲輪の他にいくつかの腰曲輪があり、波多野曲輪もその一つです。
(左)本丸から南に進み、一段下った場所にある弥陀曲輪。
(中)弥陀曲輪からさらに南へ進むと堀切に行き当たるので、ここで斜面を下ります。
(右)右手側に城塁を見ながら道を進みます。
(左)尾根道を断ち切る大規模な堀切を見上げます。
(中)堀切の向こうで尾根道に復帰。道幅は狭いです。
(右)しばらく進みましたが、急斜面で底が磨耗した靴では進めなくなったので引き返すことに。
(左)二の丸から駐車場へ向かう途中にある久留里曲輪。
(中)久留里城説明板。
(右)駐車場にも遺構らしきものが見受けられます。
久留里城はもともと室町時代に真里谷武田氏の武田信長によって築かれ真里谷城の支城として使用されていたとされていますが、当時の城域はもう少し北で城山神明社の北側が中心だったと言われています。
しかし戦国時代に入り武田氏が衰え、安房の里見義堯が進出してくると新たに再構築され対後北条の拠点として機能し、義堯の子義弘の代には里見氏の本拠となります。
1564年第二次国府台合戦に敗れた後は後北条氏と一時は久留里城も失い、義弘は佐貫城へ追い込まれます。しかし1567年の三船山合戦の大勝などを経て、上総から後北条氏勢力を駆逐します。
義弘の子、義頼の代には本拠地が安房の岡本城に移り、里見氏の一拠点となります。
さらに1590年義頼の子義康の代には小田原の役に遅参したため所領を安房一国とされ、徳川家康の関東入封で大須賀氏の居城となります。
江戸時代に入ると久留里藩の藩庁として土屋氏3代、黒田氏9代の居城を経て明治の廃城令によって廃城となりました。
個人的には遺構は充分残っていると感じましたが、予想以上の規模で全体を把握できなかったといったところです。