この日は昼頃に外出して、東武小泉線成島駅から北西へ2kmほどの場所にある多々良沼公園へ向かいました。
概要
公園の西側、多々良沼に突き出した半島状の一角は鵜古城の跡で現在も遺構が残っています。
鶉古城散策
(左)南から見た城域遠景。
(右)城域方面の公園入口。
(左)公園入口から少し進んだ遊歩道沿いに土塁と空堀跡が確認できます。
(右)土塁跡。土塁は半島状地形の基部にある一本のみですが、他の三方は多々良沼に囲まれているため必要なかったのかも知れません。
土塁裏手(内側)にある標柱と説明板。
(左)北側、駐車場脇の空堀跡。遊歩道沿いと比べて深く残っているように見えます。
(右)駐車場から土塁を登る階段。降りて内側に向かっています。
(左)土塁上から郭内を見下ろします。
(右)郭内の様子。
郭内の水路(跡?)
これが遺構だとすれば郭内を仕切る水堀としての役割があったのではないかという見方もあります。
(左)城域東側の様子。
(右)城域北側。水路で仕切られて帯曲輪状になっていますが、これは元々の構造なのか公園化に伴うものは不明です。
浮島弁財天散策
(左)城域先端部にある弁天島を見ます。
(右)弁天島へ向かう道。水位は思ったよりギリギリです。
(左)浮島弁財天由来。
(右)浮島弁財天鳥居。
(左)境内の手水は多々良沼から汲み上げているのか、波々と注がれて水たまりになっています。また水たまりには生き物が生息しているようでした。
(右)浮島弁財天拝殿。
(左)弁天島東端からの眺め。
(右)弁天島側から城域を見ます。
鶉古城歴史
この城は1333年、鎌倉幕府14代執権北条高時の弟である僧、慧性(北条泰家)によって築かれたと言われているようです。
鎌倉幕府滅亡後、慧性は荒間朝春らとともにこの地へ落ち延び城を築いたと言われています。
その後室町時代の応永年間には多々良忠致の居城になっていたようです。
戦国時代には館林城の支城として用いられていたようです。
1584年、館林城主長尾顕長が後北条氏から離反したことにより侵攻された際には、足利長尾氏に仕えていたと思われる小曽根政義が守りについていたのだそうです。
現地説明板の記述では政義は足利市の鉢形城主だそうです。
敗れた顕長が館林城から追われた事により後北条氏方の城になったと思われます。
そして1590年、小田原の役に際して館林城が落城するとともに廃城になったと見られています。
参考
現地説明板
余湖くんのホームページ