この日は昼過ぎに外出して、西武池袋線飯能駅から北へ1.4kmの場所へ向かいました。
概要
この周辺は武蔵七党丹党の流れを汲む中山氏の居館があったとされていますが、現在この場所にはそれを示すものは残っていません。


この右手側に空堀跡と説明板があったそうです。


内容は改められています。


中山家範館歴史
この館は武蔵七党丹党の流れを汲む中山氏の居館とされています。
現地説明板などに記された伝承では、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけての人物である加治家季が当地に居を置き、中山氏を称したのが始まりとされています。
一方、『姓氏家系大辞典』では、『寛政重修諸家譜』に基づき、家範の父・家勝が中山村へ移住して中山氏を称したとする系譜も紹介されています。家勝は家季の直系子孫とされるも戦国時代後期の人物であるため、中山氏を称し始めた時期について、両説には300年以上の隔たりがあります。また、いずれの説を採る場合も、現在館跡とされている区画がいつ成立したのかは明らかではありません。
家範は後北条氏に仕え、小田原の役に際して八王子城で防戦に当たり、落城の際に敗死しています。
家範の死後、子の照守と信吉は徳川家康に仕え、中山氏の活動拠点も中山村から離れました。このため、館も居館として用いられなくなったものと考えられますが、実際の廃止時期は明らかではありません。
照守は大身旗本となり、その系統は幕末まで存続しました。また照守の孫・直張の子に当たる直邦は、外祖父である黒田用綱の養子となって黒田家を継ぎ、その後加増を重ねて大名となっています。
照守の弟である信吉は水戸藩附家老となって2万石を領し、その子信政の代に松岡城を居城としました。この系統も紆余曲折を経ながら幕末まで水戸藩附家老家として存続し、明治維新期には明治政府から独立した諸侯として認められ、松岡藩が成立しました。
感想など
館は山麓の平地に築かれていたようです。
少し前までは館の北縁に当たる空堀など、遺構の一部が残っていたようですが、現地の方の話によれば、堀跡は2025年に埋められたとのことです。
遺構の脇に立っていた城跡碑と説明板も、推定される館跡の西側に位置する智観寺の、中山信吉墓付近へ移設されたとのことでしたので、そちらを訪れました。ネット上で確認した以前の説明板では、わずかに残る堀跡について触れられていましたが、現在の説明板には、遺構は残されていないと記されています。
このような状況であれば、もっと早く訪れるべきだったと悔やまれます。
路地の屈曲や敷地境界には旧来の区画を思わせる部分もありますが、宅地化が著しく、現在の地形から遺構との関係を判断することは困難でした。また、住宅地の中に位置しているため、周囲を詳しく観察することも難しい状態です。
『埼玉の館城跡』に掲載された概略図や現地説明板の図面に描かれた中心区画は、戦国期の本格的な防御拠点としては小規模に見えます。
このため館が家勝の代に築かれたと断定することは難しく、中世前期以来の居館が代々使用され、必要に応じて改修された可能性も考えられます。
一方で、本来の館域の一部だけが図示されている可能性や、周辺の外郭部分が早い時期に失われた可能性もあります。
現存遺構や発掘調査の成果が乏しいため、館の築造年代や築造者を特定することは困難です。
参考資料
- 現地説明板
- 埼玉の館城跡
- 飯能市史 資料編 1 (文化財)
- 姓氏家系大辞典 第4巻
- 飯能郷土史

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