この日は昼過ぎに外出して、東武伊勢崎線県駅から南南東へ1.9ほどの場所にある永宝寺へ向かいました。
概要
この付近には小曾根城と呼ばれる城館があったとされていますが、明確な遺構は見受けられません。
小曾根城散策



城の土塁や物見として用いられたのでは無いかと思われます。

元々は前方後円墳だった様ですが、かなり改変されている様です。

古墳を改変したものと思われます。


堀の名残かと思いましたが、古墳の周溝という可能性もありそうです。

御厨神社は永宝寺の北東に張り出すように位置しています。


特に遺構らしきものは見受けられません。
小曾根城歴史
この城が築かれた時期は不詳ですが、戦国時代には小曾根筑前と呼ばれる城主がいたと云われている様です。小曾根筑前について「栃木県史 第7巻」には足利家臣と記載されていて、更に県史7巻で当城は「足利氏にありては重要の要塞であったらしい」とも記され、それらは「日本城郭大系」にも引用されています。
ただ他の資料(栃木県史 第8巻、大日本史料 第11編之13など)によれば小曾根筑前は勧農城などを拠点とした足利長尾氏に仕え、1585年元日の須花坂合戦にて攻めてきた佐野氏の軍勢を迎え撃ったと云われている様です。
ただ古河足利氏、足利長尾氏のいずれであっても後北条氏の傘下となり、1590年の小田原の役後は廃城になったものと思われます。
感想など
今回は永宝寺が城の中心であったという仮定の元に訪れましたが、実際のところ城域は確実とは言い切れない部分があります。
それは「栃木県の中世城館跡」の分布図では永宝寺の南を中心とし、大系では城域の位置について永宝寺北東としていたりと資料によって位置が微妙に異なっている事があります。永宝寺を中心とした仮定は「文化財総覧WevGIS」を基にしています。
ただ永宝寺は古墳を改変して土塁とした様に見える点や、境内が中心で鬼門に御厨神社を置いたと考えると説得力がある様に感じられます。
そうは言っても永宝寺周辺は宅地、耕作地となっていて全体的に明確な遺構は残っていない模様です。
参考
栃木県の中世城館跡
栃木県史 第7巻
栃木県史 第8巻
大日本史料 第11編之13
日本城郭大系 第4巻
文化財総覧WevGIS
