25/4/12 貞元親王館

この日は昼過ぎに外出して、JR内房線君津駅から南東へ2kmほどの場所に向かいました。

概要

この場所には貞元親王の墓があり、館跡らしき遺構も僅かに残っています。

貞元親王墓、館跡散策

貞元親王館歴史

この館はその名の通り貞元親王の館跡と云われているそうです。
貞元親王は平安時代初期に即位した清和天皇の第三皇子とされていますが、親王の正室と愛妃であるお万の方が仲違いした事が原因で周淮郡の郡司で藤原北家の一門である、江尻季光を頼って下向したと云われているそうです。
伝承によれば親王は季光の館に入り程なく没したとされており、館跡自体が後の時代において江尻氏の所有地であると記録されている事から、館自体は伝承に関わらず江尻氏の館として用いられたものと考えられます。

貞元親王墓

この墓がいつから存在するか定かでありませんが、江戸時代以前から存在し親王の墓と云い伝えられていた模様です。
1678年、地元の人物平野権左衛門は墓が寂れていく様子を見て、親王の墓碑を建立したそうです。しかし建立年月日などに加えて施主として自らの名前を刻んだ事で、梶川三之丞(旗本梶川忠栄?)に仕える関戸源左衛門という人物に親王との関係を問い質され、権左衛門は親王とその墓の存在を知らしめたかった旨の発言をしたそうですが、源左衛門は権左衛門に対して、親王と縁があるかのように示すのは不敬に当たり禍の元になるかも知れないと言われ、権左衛門は施主として刻んだ名前を削り取ったと云われているそうです。しかし現地説明板には平野氏はお万の方と縁があると記載されており、それが事実であれば親王と縁が無いと言うわけでは無いように思われます。

感想

市指定史跡である貞元親王墓の南東にほぼ隣接して土塁状地形で仕切られた区画が存在します。資料には館跡の北西に墓が建っているとされているので、これと一致します。ただ土塁状地形の北西辺は私有地に見え、内側には廃屋らしきものが存在していて私有地の可能性があります。
また館跡自体は親王の館というよりは江尻氏の館といった方が正確と思われます。

参考

現地説明板(貞元親王墓)

上総国町村誌 上巻

改訂房総叢書 第4輯

君津町誌 前編

瑞雲 : 君津市久保土地区画整理組合事業完成記念誌

余湖くんのホームページ

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