途中の説明を読みながら進んだためか、距離の割には時間が掛かり40分ほどで到着しました。
武田神社に入る前に近くの住宅地内で堀跡の写真を撮ってから神社へ。
流石に人が多いです。
神社廻りは水濠が巡らされ、土塁もかなり立派。
規模的には「館」ではありませんね・・・
躑躅ヶ崎館は1519年に武田信虎が新たな居館として造成し、家臣団屋敷や要害山城とともに整備し甲斐府中の中心となります。
その後信玄、勝頼の居館としても使用されましたが1580年に勝頼は新府城に居を移します。その際に躑躅ヶ崎館は破却されています。
武田氏滅亡後織田信長配下の河尻秀隆が躑躅ヶ崎館に入りますが、程なく本能寺の変が起こり、甲斐国内では農民一揆が起こり河尻が死亡し、甲斐は徳川領になる事で安定しますが、程なく甲府城が築かれ躑躅ヶ崎館は廃城となります。
最大で5つの郭を備えた躑躅ヶ崎館ですが、元々は主郭(現在神社社殿がある場所)のみだったものが拡張されたようです。
単純な方形単郭の館でも周囲に家臣屋敷を配置し、要害山城を後方の詰めの城としていたので守りは十分だったのでしょう。
一通り散策した後はお茶屋で信玄餅と緑茶のセットを頼んで一休み。
そろそろお昼だな・・・などと思ったり、結局夕方の帰京直前まで何も食べずじまいでしたが・・・
(左)武田神社南の住宅街にある堀跡。梅翁曲輪の南側の堀に当たるようです。
(中)武田神社正面入り口脇の堀。
(右)武田神社東側入り口。正面入り口と違って静かですが、こちら側が躑躅ヶ崎館大手門だったようです。
(左)虎口脇の土塁。土塁前の立看板が160~170cm程度はあっただろうと思います。
(中)主郭の周りは土塁に囲まれています。
(右)武田神社社殿。
(左)西曲輪から主郭を見ます。
(中)土橋から見た西曲輪。曲輪内にある藤村記念館の工事中でした。
(右)工事現場の脇を抜けて北へ向かう道。
(左)西曲輪北側虎口。土橋の内側は枡形になっています。
(中)土橋から見た枡形。土橋の両側は空堀です。
(右)北側虎口の外側、北曲輪だった辺りです。ただの原っぱではなく馬出になっています。郭の北側は宅地になっているようです。
(左)西曲輪南側の堀。
(中)西曲輪南側虎口。こちらも枡形になっています。
(右)西曲輪南側の外。梅翁曲輪北側で馬出があったようですが、原型を留めていません。