24/6/22 岡部氏館

この日は昼過ぎに外出してJR高崎線岡部駅から北東へ1.5kmほどの場所にある菅原神社へ向かいました。

概要

この周辺は平安時代に築かれた岡部氏の居館に始まる城郭があったとされていますが、明確な遺構はほぼ見受けられません。

岡部氏館散策

岡部城歴史

この城が築かれた時期は定かでありませんが、平安時代末期から鎌倉時代初頭の人物である岡部忠澄の居館とされています。
岡部氏は武蔵七党猪俣党の流れを汲んでいるとされ、猪俣忠兼の子である忠綱が岡部に居を置き岡部氏と称したのが始まりとされていますので、忠綱が館を築いたのかも知れません。
忠澄は忠綱の孫に当たり、源義朝に従って戦った後岡部に戻って暮らしていたものの義朝の子頼朝が挙兵するとそれに従って平氏方と戦いや奥州合戦で戦功を挙げたといいます。
岡部氏がいつまで館に居を置いていたか定かでありません。

室町時代の1455年、享徳の乱が起こっている中関東管領に就任した上杉房顕は深谷城を守るため長尾景仲を入城させたと云います。
この時に城として増改築があったものと思われますが、陣城として用いたとする見方もあるようです。
またこれに先立って1439年、永享の乱に際して忠澄の子孫である景澄が鎌倉公方足利持氏に殉じて自刃した様で、関東の戦乱が続く中で岡部氏はこの地を追われていたものとも思われます。
その後城郭としていつまで用いられたのかは定かで無い模様です。

感想

普済寺から菅原神社にかけての範囲にあったと見られている城館ですが、現在は明確な遺構がほとんど残っていない事もあって詳細な城域は不詳です。
ただ元々は小規模だったものが景仲によって拡張された可能性は大いに考えられます。
資料によっては景仲が陣を置いたと記載しているため、元々岡部氏の居館だったものを陣城として拡張したため構造自体は非常に簡素だったとも考えられます。
また遺構について、土壇状地形の他「埼玉の古城址」には忠澄墓所の南側に土塁遺構らしきものが記載されていますが、現在はそれらしき明確な遺構は見受けられませんでした。
また最初に見つけたのがgooglemapで、そこでは菅原神社を中心として「岡部氏館」としていましたが、調べれば一筋縄では行かない印象でした。資料によっては「岡部城」と記載していたり、「岡部城」とは五十子陣付近の陣城であるとしていたりしていたりと判然としない有り様でした。
ただ館跡をベースに陣城を置いたほうがスムーズであろう事と考えたものの、本ページでは「岡部氏館」の表記を採用としました。

参考

現地説明板

日本城郭全集 4 (岡部城)

埼玉の古城址 (岡部城)

埼玉の館城跡 (岡部六弥太忠澄館)

googlemap (岡部氏館)

余湖くんのホームページ (岡部氏館)

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