24/5/11 兎々呂城/深沢城

この日は遅めに外出して東急大井町線等々力駅から北へ1kmほどの場所へ向かいました。

概要

この場所は戦国時代に後北条氏家臣の南条重長が築いた城の跡とされていますが、現在遺構などは残っていません。

兎々呂城散策

城域とされる都立園芸高校の校門前。
校門前に建っている城跡碑。

深沢城散策

城跡碑周辺から南西550m弱の場所にある建っている天祖神社。
天祖神社境内。
城域の西を流れる谷沢川。
南の等々力渓谷方面へ流れています。

兎々呂城/深沢城歴史

先述の通り兎々呂城は後北条氏家臣の南条重長によって築かれたと云われています。
重長は1564年に起こった第二次国府台合戦で戦功を上げて深沢村を与えられて城を築いたそうです。
1590年、小田原の役で重長は小田原城を守るために参陣しますが後北条氏が敗れた事により城は廃城となり、重長は深沢で帰農したと云われている様です。

感想など

23区内という事もあってか面影も残っていません。
明治期の地形図が刊行した時点で園芸高校が建っているため、早い段階で遺構は失われたものと思われます。
また当城は用いられた期間が短い事もあってか城域や城の名称も確定していない印象を受けます。
「日本城郭全集」「武蔵の古城址」では兎々呂城と深沢城を分けて記載していますが、「世田谷の中世城郭」では園芸高校付近を深沢城(兎々呂城)としています。
ちなみに兎々呂城と深沢城を分けている資料はともに二城は重長が城主であったと記しています。
そういう訳で園芸高校付近に城があった確度は高そうですが、少し下った位置にある天祖神社に城があったのかは見解が分かれている様です。距離感を考慮すると兎々呂城と別の城というよりは兎々呂城の施設、あるいは砦があったのかも知れません。

参考

日本城郭全集 4

武蔵の古城址

世田谷の中世城郭

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