24/2/24 勅使河原氏館

この日は昼過ぎに外出してJR宇都宮線新町駅から南東へ2km弱の場所にある大光寺へ向かいました。

概要

この大光寺は平安時代末期から鎌倉時代に掛けて築かれたと思われる勅使河原氏の館跡とされ、僅かながら土塁遺構が残っています。

勅使河原氏散策

城域まで

城域の西を流れる神流川。
群馬県と埼玉県の県境でもあります。
城域の北にある神流川古戦場跡。
1582年に起こった神流川の戦い戦場跡だそうです。

城域

大光寺山門。
山門脇に建っている城跡碑。
大光寺説明板。
勅使河原氏によって創建されたと記載されています。
大光寺本堂。
境内西側には唯一の遺構である土塁が残っていますが、なかなか立派です。
土塁上の様子。
土塁の上にはお堂が建っています。
土塁の北端から北側を見ます。

勅使河原氏館歴史

勅使河原氏は武蔵七党丹党の流れを汲むそうで、平安時代に秩父基房の子である直時が勅使河原を称して築いたと思われます。
鎌倉時代初頭の1215年に大光寺を勧請した当時の当主で、直時の孫である有直は所謂源平合戦にて源義経に従ったとされ、子の則直も鎌倉幕府の御家人として仕えた様です。
南北朝時代、則直の弟である信直の子とされる直重は南朝方として新田義貞に従い、1336年の淀大渡の戦いで敗れて自刃したと言います。
これによって勅使河原氏は没落したのではと思われますが、ただ鎌倉時代初頭の有直の孫が南北朝時代に活動したというのは無理がありそうな気がしますので、省かれた代があるように感じられます。

感想

平安時代に築かれたと見られている館ですが、現在唯一残っている土塁はなかなか立派なものとなっています。
しかし勅使河原氏が最後に活動したと見られる南北朝時代まで用いられたと考えると、それ相応に改修したのだろうと納得行く部分もあります。

参考

現地説明板(大光寺)

姓氏家系大辞典 2

余湖くんのホームページ

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