24/11/3 長沼城

この日は昼過ぎに外出して、JR成田線久住駅から西へ3km弱の場所に稲荷神社裏の長沼市民の森へ向かいました。

概要

この稲荷神社と長沼市民の森は長沼城の跡である程度の遺構が残っています。

長沼城散策

東から見た城域。
城域南側麓の稲荷神社鳥居。
鳥居付近に建っている説明板。
南側の腰曲輪跡に建っている稲荷神社拝殿。
腰曲輪、主郭東側に相当する方向を見ます。
東側腰曲輪は立入禁止となり荒れています。
看板付近から裏手を見たもの。
拝殿付近から主郭方向の虎口状地形。
遺構はどうかは不明です。
主郭から虎口状地形脇の土塁、張り出しを見ます。
主郭内の標柱。
主郭北西の物見跡。
物見の上に祀られている祠。
物見の上から主郭を見下ろします。
主郭北東の土塁。もっとも良く残っている様に見える箇所です。

長沼城歴史

この城は時代は定かでありませんが、結城一門にあたる長沼朝教によって築かれたと云われています。
長沼氏は結城朝光の五男である朝良が下野国長沼に居を置き長沼を称した事に始まり、朝教は朝良の5代後の子孫とされている様です。
ただこの長沼氏の動向については朝良、朝教についても含めて定かで無く、同じく下野国長沼を発祥とし同族といえる小山一門の長沼氏との関連も不詳です。
ただこの地に居を移した朝教は善政を敷いたと云われているようで、長沼の地名も長沼氏から取ったものとされています。
戦国時代には長沼武俊が城主であったとされていますが、朝教の末裔かと見られるも詳細は不明です。
城がいつ頃まで用いられたかという点も定かでありませんが、城主である下総長沼氏は千葉氏に属していたと見られており、遅くとも1590年に小田原の役起こった後千葉氏が没落した際には廃城になったと思われます。

感想

思えば15年前に訪れようとしたものの、時間か何かの問題で断念してそれっきりでしたが、長い間駅との距離を勘違いしていた事に気付いて実に15年越しに訪れる事になりました。
城の周囲はかつて湿地だったそうで、現在よりも要害に相応しい地形であった事が想像出来ます。
城域は単郭式で南側に半円状の腰曲輪が見受けられるなど全体的な様子は分かる程度の遺構は残っている印象でした。

参考

現地説明板

日本城郭全集 3

房総の古城址めぐり 下巻 (下総国)

余湖くんのホームページ

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